ももが老婆にぶつかりそうになった路地三叉路からメイン道路(車一台がぎりぎり通れる程)に戻ると、西進を再開します。
二つ目のY字路左手手前一軒目と二軒目の家は進藤家ですから、幕末の文人・進藤一郎一族子孫でしょう。
そのY字路を過ぎて左手に五軒目が、先 日投稿した、坂本龍馬や桂小五郎たちの四藩軍事同盟密約所である旧本徳寺です。
旧本徳寺西隣の三寿ふれあいプラザ北のT字路から北上する道沿いに、本来なら場所的にも陽太邸モデルの家があるはずですが、陽太邸は架空の家である模様。そして、映画では陽太邸南東斜向かいに赤煉瓦の石垣を擁す、前述とは別の進藤家があるのですが、実際の進藤家の石垣
は赤煉瓦ではなく、家の造りや北上する道路の傾斜も全く異なっています。
やや落胆しながら最初の進藤家のY字路まで引き返すと、南東に進みます。2分ほどで宇津神社敷地の北西角のT字路に至り、ここを右折します。突き当たり三叉路角にある民家は映画の美術設定資料にあるので、映画に登場したかも知れま
せん。
その三叉路をまた右折すると、正面にももの家のモデル、飛彈家の長屋門が見えています。そう
、その道は、ももが見守り組の影に追われて、家から走り出てから、郵便屋・幸一に「どこ行きよるんや」と聞かれて振り返った場所。
更に後日、母と幸一が親しげに会話している様をももが不快な思いで見ていた場所でもあります。但し、この辺りも映画と実際の光景は若干異なっています。
美術設定資料では、長屋門の右横が風呂場になっていますが、外から見ると台所のようにも見えます。風呂場内部は映画で忠実に再現されているか否か不明ですが、飛彈氏に窺ったところ、母屋、つまり、ももと母親の居住家屋について、忠実に描かれているのは外観のみで、内部は実際とは全く違うとのこと。
長屋門の欄間は映画では忠実に描か
れています。長屋の各部屋は近代、泊子(とまりこ)部屋として使用されていたもの。泊子とは広い田畑を持つ大農家の農作業使用人が、住み込みで従事する形態のことを言います。当然、大長みかんの栽培です。かつては敷地に選果場もありました。
大崎下島は明治半ば頃まで、桃の産地として知られ、開花期には観光船が運航され、一日五百人を超える観光客が訪れていたようですが、明治末頃廃れ、農家は皆、大長みかん栽培に切り替えたのです。
飛彈氏の先祖がいつごろ、この地に住み始めたのかは当主の方も分からないよ
うですが、現在の母屋は文化年間(1804~18)、既にあり、それが教育委員会にも認められ、文化財指定を受けているのです。
母屋南西にある離れは昭和期に建設され
たもので、これはももの大叔父・貞浜さちおと大叔母・さえ夫妻の家屋のモデルとなっており、こちらの方は外観・内部とも忠実に再現されています。
花木のある庭では、映画で見守り組が隠れてももたちを見守っていましたが、庭の区画は映画でもほぼ同じなものの、植栽されているものは異なっています。
長屋門の南にある清瀧観音堂は映画には
登場してなかったと思いますが、飛彈氏先祖が大正期、山に祭られてあったものを、皆が参拝し易いよう、下してきたもの。山にあった頃は大祭日、稚児行列も行われていたと言います。
尚、飛彈氏は家の詳細な場所は非公開にしているということなので、皆さんも絶対、ネット地図等には図示しないで下さい。但し、呉市が頒布している「文化財探検マップ」(御手洗の潮待ち館にも常備)の地図には図示されています。
次回、「瀬戸内もも旅ガイドマップ」に写真が掲載されながらも、場所が公開されていない聖地を巡ります。
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