坂本龍馬が番所で発した言葉~真実の坂本龍馬脱藩道28梼原町編(7)~ | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

茶屋谷茶堂北の四叉路から西に2~3分歩くと、道路の上に二軒の民家があり、その先に坂本龍馬脱藩の道の道標が立てられ、山道が北西に上がっています。ここからいよいよ本格的な山越え道となり、まずは松ケ峠(まつがとう)番所跡を目指します。



尚、山中の道を登る時、現在地や、目的地までの到達度合いを大まかに把握するため、高度計を活用することをお勧めします。到達度合いが分かると分からないのとでは、精神的疲労具合が大きく異なります。



高度計はネットでは腕時計型のものが型落ちのタイプであ自然、戦跡、ときどき龍馬-茶や谷山中の道 れば一万円以下で販売されています。性能や機能で一番信頼できるのはカシオ製品。但し、天候不順時は高度計測が正しく行われない場合があります。これは気圧の急激な変化をセンサーが捉えきれないため。



茶屋谷の登山口の標高は580m、目指す最初のポイントである松ケ峠番所跡は720m、最高所の国境の韮ケ峠は950m。但し、松ケ峠以遠は上り一辺倒ではなく、上り下りを繰り返すため、体力を要します。該当の地形図は「惣川」です。



緩やかに上がる山道は尾根を回り込む形で大きく右にカーブします。

尾根の反対側に回ると前方が開け、田畑の端に二軒ほどの民家が見えます(一枚目画像)。



民家の少し手前で、茶屋谷茶堂北の四叉路から上がって来た車道を横断しますが、ここから松ケ峠までの道は地形図に記載されています。



民家を右手奥に過ぎてほどなくで、車道の自然、戦跡、ときどき龍馬-車道カーブ先の脱藩の道 右急カーブをかすめて植林帯沿いを進みますが、要所には全て脱藩の道道標が設置されています。



山中の道は西から南西へと上がって行き、北西に向きを変えると、左手上が台地のようになっています。その台地のように見えたのは地形図に未記載の林道ですが、その林道に上がった所が松ケ峠番所跡で、案内板も設置されています。地形図では鞍部になっています。



この案内板にも、龍馬がここの番所を通過時に発した言葉が記載されています。龍馬は番所前を通った時、「坂本龍馬、まかり通る!」と堂々と名乗って通過したと伝承されているのです。



これには二つの理由が考えられます。まず一つは同行の那須親子の存在。俊平は槍の腕前が高知城下にも轟いていたほどで、且つ、自宅道場には近隣の村々から多くの若人が入門し、剣術や学問を教わっていました。信吾も「天狗様」と呼ばれるほど。



そういう誰もが知る学識のある者の一行であるから、番所役人も詳しく通行手形等を調べることはない、まして地元の中岡利吉もいる、当然利吉は番人のことも知っている、だから龍馬は堂々とした態度で通過したのではないでしょうか。



もう一つは、龍馬が偽手形を所持していたと自然、戦跡、ときどき龍馬-松ケ峠番所跡 いう可能性。実は龍馬よりも先に脱藩した吉村虎太郎は、土佐勤王党員で藩庁の役人だった曽和伝左衛門に偽手形を貰っていたのです。

龍馬も勤王党幹部の一人ですから、同様に手形を貰っていた可能性があるのです。



尚、山に無知な歴史研究家や龍馬研究家の中には、山では道のない所でもどこでも歩けたから、番所を避けて通ることは簡単、という馬鹿げたことを言うものがいますが、藪の密生度が高ければ、藪漕ぎはできないのです。



また、樹木の種類や植林の有無によっても藪の密生度は大きく異なります。これまで何度も述べてまいりましたが、歴史研究家が語れるほど、「山」や「古道」というものは簡単ではないのです。



私これまで無名峰を100座以上開拓してガイド書に著し、更により深く山のことを知るため、山間部に移り住み、林業に従事したほか、新聞社の登山講師の経験もあります。にわか作りの脱藩道踏査者とは訳が違うのです。



だからこれから山間部の脱藩道を歩こうとする方は、最低でも登山の基礎知識を習得し、地元の山で訓練してから辿るようにして下さい。「山」をなめたらいかんぜよ!

山間部の脱藩道を登ろうとする方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックonMe&東日本義援金にも善意を。



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