街道遺産(2)坂本龍馬も通った一里塚跡三景 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

全国に藩政期、築造された遺構の中で、数が最も多かったのが一里塚。主要街道には数キロ(地区や時代によって距離の計測法が異なるので四キロとは限らない)毎に必ず設置されていました。

 

そこは旅の道程の目印にもなることから、塚の側には榎や松が植栽され、夏場には木陰になり、そこで旅人は汗をぬぐったものでした。

 

が、この藩政期の遺構の中で最多だった一里 塚は現在、残存率が最も少ない遺構でもあります。

主要街道にあっただけに、明治期、道の幅員の拡幅や整備によって撤去されてしまったのです。

 

(1)市頭(いちがしら)一里塚跡(山口県宇部市自然、戦跡、ときどき龍馬-市頭一里塚跡

坂本龍馬の四国と山口県の脱藩の道に於いて、一里塚が完璧な形で残っているケースはありませんが、長州脱藩道(山陽道)が通る宇部市にはその面影が色濃く残る箇所があり、標柱も立てられています。

 

そこは船木峠の西口にあたる船木市頭の市頭一里塚跡です。国道2号南の宇部興産専用道路西下の集落入口にあります。

 

跡地には明治期、地蔵と大師堂が建てられているので目印になります。ここには明治八年頃まで、石積みと、その上には「赤間関より九里、安芸境小瀬川より二十七里」と記された塚木がありました。

 

地蔵の側には山の斜面の土止めとして石積みがされていますが、もしかしたらこれは一里塚の塚石なのかも知れません。ただ、残念ながら地元にも明治初期のことを知る人はいません。

周辺の他の史跡や脱藩道ルートについては、拙著「長州・龍馬脱藩道」を。

 

(2)香登(かがと)一里塚自然、戦跡、ときどき龍馬-香登一里塚 (岡山県備前市)

これは去年「備前・龍馬街道」シリーズで取り上げたように、龍馬と中岡慎太郎が京の西郷隆盛を追って歩いた備前市香登の山陽道に残る遺構。

 

現地の標柱には「一里塚跡」ではなく「一里塚」と表記されていますが、やはり明治期、石積みの南側、昭和期には西側が道の拡幅のため、多少削られています。

 

かつての形状は楕円形で、樹高20mもの榎の大木が聳えていましたが、平成四年、榎については史跡指定外となり、理不尽にも伐採されてしまいました。

「備前・龍馬街道」は当ブログよりも詳細な記述とルート図を拙著「長州・龍馬脱藩道」に記載。

 

(3)押ノ川一里塚(高知県宿毛市)

 

 

これは土佐西街道中、唯一現存する一里塚。但し、文献では龍馬は四万十市までしか行っていないので、宿毛市域は直接的な関係はありません。

 

しかし間接的には大いに関係があるのです。以前、二度ほど、龍馬が暗殺された時間帯に、長州下関の自然堂に於いて、お龍と会っていた宿毛の志士がいると述べましたが、その大江卓が歩いているのです。自然、戦跡、ときどき龍馬-押ノ川一里塚

 

卓は宿毛の土居付家老、伊賀氏の命を受け、藩の首脳部の情勢を探りに行ったことがあるのです。

 

伊賀氏は開国か攘夷かの判断を決めかねていたのです。そこで卓は吉田東洋武市瑞山に会い、「藩の進むべき道」について見解を聞いたのですが、瑞山は攘夷一辺倒で将来の展望はない、と卓は判断し、東洋の革新的な考えに感銘し、伊賀氏に報告しています。

 

だからこそ、宿毛の志士らは幕末、目立った行動は起こさなかったのですが、明治期、「明治政府打倒」を唱え、「高知県軍挙兵」を画策することになるのです。それについては機会があれば語りましょう。

 

一里塚については、西側の土地が嵩上げされているため、景観的にはあまり塚らしくありませんが、塚の上には貞享元年(1684)に建立された、高さ298cmの経塔が威風を今に伝えています。

尚、周辺の古道は消滅しています。

 

高知県下の現存一里塚はこの他には松山街道黒森越と、土佐東街道中の野根山街道位。

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