うさぎと要塞と毒ガスの島(1) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

今年は干支のせいで、うさぎが注目されていますが、国内には「うさぎの島」と呼ばれる、うさぎが数多く生息している離島が複数あります。


その中で、手塚治虫の漫画や映画「MW-ムウ-」の題材になった毒ガスと陸軍要塞の島があります。それが広島県竹原市の瀬戸内海に浮かぶ小島「大久野島」です。

自然、戦跡、ときどき龍馬-毒ガス取り出し作業

大日本帝国陸軍は明治20年頃より、清国やロシア艦隊に対する沿岸の防備として、全国各地に要塞の築造を開始します。


尚、「要塞」という文言は軍法によって定められた陸軍用語なので、海軍に要塞は存在しません。一般の者はただ単に規模が大きい陸海軍施設をこの言葉で呼ぶことがありますが、それも当然誤りです。


帝国陸軍は瀬戸内の防備のため、いくつもの離島に要塞を築いたのですが、明治30~35年にかけて、愛媛県今治市の来島海峡と広島県竹原市の忠海海峡の海防のため、今治市の小島と竹原市の大久野島に「芸予要塞」を築造しました。


が、日露戦争に勝利し、更に大正11年の世界軍縮協議により、この要塞は廃止されます。

廃止後は両島共、元の静けさに戻ったのですが、昭和4年、当時、四世帯しか島民のいなかった大久野島は陸軍によって接収され、「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」が建設されます。


陸軍は国際条約で使用が禁止されていた毒ガスの製造を始めたのです。


最盛期には周囲僅か4.3キロの島で、6,000人以上もの工員が憲兵の厳しい監視下で毒ガス製造に携わっていました。

自然、戦跡、ときどき龍馬-毒ガス要塞島のうさぎ

この時、モルモットとして島に連れて来られたのがうさぎだったのです。また、作業室の毒ガスの探知のため、十姉妹(じゅうしまつ)も使用されました。'95年、警察がオウム真理教施設を強制捜査する際、捜査員が鳥籠を持っていたのも危険を察知するためです。


終戦まで、この島では6,600トンもの各種毒ガスが製造され、その一部は中国や台湾戦線で使用されました。


昭和後期には国民休暇村としてレジャーの島に変貌し、生き残りのうさぎの子孫に加えて、島外からもうさぎが持ち込まれて繁殖し、現在では島のアイドルになっています。


現在、この島の住民は休暇村関係者だけですが、毒ガス貯蔵施設や要塞の砲台も一部残っていて、島内をウォーキング回遊することができます


そんな離島ですが、今治市のしまなみ海道の大三島盛港と、竹原市忠海港から短距離のフェリーの便があるため、四国や山陽から日帰りも可能。

自然、戦跡、ときどき龍馬-芸予要塞南部砲台

島に着くと、まず「大久野島・南部砲台跡」を目指したいもの。海岸沿いを西に歩いて行ってキャンプ場(材料倉庫群跡)を過ぎると、北側の山中へ上がる車道が現れます。

勿論、島への車両の乗り入れは禁止なので、歩くしかありません。


砲台跡は看板が出ているので、すぐ分かります。入口からすぐ埋没気味の地下砲側庫が現われ、その奥の広場の先には、砲座や砲弾置場(砲座周囲の壁面に開くいくつもの四角い穴)が石段と共に完璧に残っています


ここには24cmカノン砲と9cm速射砲が、それぞれ四門ずつ配備されていました。

砲台跡からは島の尾根を縦断することもできますが、ひとまず海岸沿いの道に戻って、西に進みます。ビジターセンターでウォーキングマップを貰うためです。


ビジターセンターの側には、複数のコンクート壕や施設跡があるのですが、なぜかそれらには説明板が設置されておらず、観光客の中にも見学する者はありません。

折角毒ガス資料センターもある位なのに、「なぜ?」という疑問もわきますが、それらの施設は次回。


尚、大久野島の軍の各施設については、私の資料が散逸しているため、あまり詳細を記すことができません。もし見つかれば、また書き加えます。

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