各種ワード(語句)検索で当方のブログを訪問された方のその語句を見ていると、よく、地元県では超有名な史跡が含まれていることがあります。
昨日は「晋作陶像 住所」という検索による訪問が二件ありました。
山口県下関市に二体の陶像があるということは、山口県民なら全員知っていることですが、下関市吉田の東行記念館側の「清水山の晋作像」に比べ、本家の下関市丸山町5丁目5番にある「日和山の晋作像」は、車で行く場合、地元民以外では分かり辛いかも知れません。
と、いうのは、陶像がある日和山公園周囲は歩道が大半で、市販地図にも歩道と車道の区別がされずに記載されているため、地元以外の方にとっては、分かり辛いのです。
近くのICからの道順では、まず中国自動車道下関ICを降り、県道57号を南西に進みます。
県道248号が西から合流する交差点は左折。途中から道路は田中川を挟んで並行するようになります。多分、南下する場合は田中川の東を並行するようになると思います。
そして反対車線の南西角にレストランのリンガーハットがある交差点を西に折れます。
この道路をひたすら南西に真っ直ぐ進むと日和山浄水場の東沿いを南下し、日和山公園に突き当たります。
一般道の場合は、日銀の南西方向にある国道9号の入江交差点を北に折れます。北東角に山口銀行入江出張所がある交差点です。
入江交差点を過ぎてから四つ目の信号交差点の南東角にエネオスガソリンスタンドがありますが、その交差点を左折すると、ほどなく浄水場、そして日和山公園です。
徒歩の場合は東西そして南から、何本もの歩道が上って来ていますが、一番分かりよいのは、南東角に下関警察署がある細江交差点を北に折れ、突き当たりの細江公園東から北上する長大な石段(二枚目画像)を上るルートです。
細江公園前は「晋作通り」と言い、杯を持った晋作の胸像が建っています。また、細江公園前には付近の案内板が設置されています。
この細江公園辺りは藩政期は港で、文久三年、ここから久坂玄瑞らが大砲を積載した船を出航させ、関門海峡を何も知らずに航行していた外国船を砲撃し、全国初の「攘夷」を決行したのです。
尚、日和山の晋作像が清水山の像と比べ、表情が険しいのは、初代の日和山の銅像の建設発起人世話役が、当時の下関要塞の司令官だったからです。
戦後再建される際も、その銅像を元にしているのです。
清水山の陶像は、日和山陶像の試作品として作られたものの一つで、大きさは日和山像の三分の二ほど。
因みに現在、清水山陶像が建っている台座には終戦まで、山縣有朋の銅像が建っていましたが、盗まれてしまいました。しかし戦時中、晋作の銅像が供出されて、有朋の像が供出されなかったというのは、可笑しなことです。
高知市桂浜の坂本龍馬像も供出を免れましたが、それは龍馬が海軍創設の父とされているからです。つまり、海援隊を海軍の前身と捉えていたのです。
また、日和山像の下にある下関最大の常夜燈には、長府藩の報国隊士によって斬られた料理屋の主人の霊がとり憑いていたことは、以前詳しく述べました。
最後までお読み戴いた証に次の二つのバナーをプリーズ・クリックonMe