「龍馬伝」は三吉慎蔵を愚弄するな! | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

長府藩士・三吉慎蔵ファンの方は、大河・龍馬伝での慎蔵の扱いに怒りを覚えていることと思います。


自然、戦跡、ときどき龍馬-三吉慎蔵の生家跡 ドラマでは慎蔵は、下級武士である坂本龍馬の前に膝まづき、お龍からは部屋から出て行って欲しい、と邪険に扱われる始末。


あのような光景は実際にはあり得ないことで、慎蔵は文武両道で且つ、誠実な性格を長府藩主に認められ、元治元年から慶応元年にかけて出世し、永代馬廻り格、更に山口在番役や郡代まで務めた、藩主の側近の一人である上級武士なのです。


それが下級武士・浪士の警護役をするようなことはあり得ません。龍馬と共に薩長同盟を見届けるため、上京する時も龍馬の護衛役として随行した訳ではありません。


慎蔵は別に京の情勢を探る藩命を受けていたのです。龍馬がいくら剣豪とは言え、京は薩長の動きを警戒する幕府勢が大勢いるので、槍の名手である慎蔵がついていれば安心だろうということだったのでしょう。

自然、戦跡、ときどき龍馬-晩年の三吉慎蔵


勿論、京への同行者が、最初から慎蔵に決まっていた訳ではありません。


慶応二年元旦、印藤のぶるの紹介により、下関の庄屋・福永専助邸で二人の長府藩士と会い、龍馬が慎蔵と同行したい旨、伝えたのです。


もう一人も文武に優れた報国隊士の熊野九郎だったのですが、九郎は後に昨日触れた、報国隊初代総督・野々村勘九郎と対立した後、藩内で勘九郎のことを散々讒言して関西方面へと向かいましたが、戊辰戦争時、報国隊に捕らえられ、斬首されています。


それより前には、勘九郎も高杉晋作や伊藤博文を暗殺しようとした罪を問われ、功山寺で自刃しています。

龍馬の目には九郎よりも慎蔵の方が誠実に映ったのでしょう。


寺田屋事件で、龍馬と慎蔵はお互い、命の恩人となります。慎蔵は得意の槍で龍馬を捕らえようとする捕吏を防ぎ、龍馬は寺田屋を後にしての逃亡中、慎蔵が「もはやこれまで」と自刃しようとしたところを踏み止まらせています。


更にいろは丸事件に於いて紀州藩との談判に向う折龍馬は、慎蔵に自分に万一のことがあればお龍を宜しく頼むとの手紙を書いて送るほどになっています。

後にこれは龍馬の遺言にもなるのですが、二人は身分を超えた友情と言えるでしょう。

自然、戦跡、ときどき龍馬-坂本龍馬も訪ねた三吉慎蔵邸跡


慎蔵は明治維新後、政府からの出仕の要請を断り、飽くまで長府毛利家の家扶として仕えました。


それ故、慎蔵の墓は特別に毛利家の墓所の側に設けられています。


そんな龍馬とは最も繋がりの深かった長州人・慎蔵ですが、生家跡や栄達後の屋敷跡、墓所等一切看板が設置されてないことは残念なことです。


生家跡は乃木神社南の道を西に行った所のT字路南角(一枚目画像)。その後の龍馬も訪れた屋敷跡は長府郵便局東の十字路南東角(三枚目画像)。


墓所は現在、案内板が設置されているかも知れませんが、場所は功山寺墓地。分からない場合は、長府博物館にお尋ね下さい。


余談ですが、慎蔵の長男・米熊は「近代蚕糸業の父」とも言える偉人。

慎蔵や野々村勘九郎関係の史跡は来年一月発行予定の「長州・龍馬脱藩道」に掲載。
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