[丑の刻参りの創始者と発祥の神社]
全国各地の寺社周辺の森の中に、時折釘うちされた藁人形を見かけることがある。
この行為について、自己本位の者たちは、
「そんなことをする暇があるなら、その熱意を勉学や仕事、或いは自分の情熱を傾けられることを見つけて、それに注いだ方が建設的だ」と言う。
しかし、人間とは非建設的なことをする生き物である。言い換えるなら、非建設的なことをしない人間は、まともな人間ではない、とも言える。尤も、非建設的なことしかしない人間もまともである訳がない。
丑の刻参りの歴史は古く、嵯峨天皇の世(809~823年)に京都宇治の橋姫が始めたと言われる。
橋姫は嫉妬深く、それに嫌気が差した夫は愛人を作って家を出た。これに烈火の如く怒った橋姫は宇治川に夜、髪を浸し、「我を鬼人にし給え」と祈願し、その足で貴船神社奥宮に詣で、丑の刻参りを百日間続けたという。
そして満願日、夫とその愛人は変死したのだった。
そ れ以降、奥宮は丑の刻参りのメッカとなり、昭和初期まで、頻繁に続けられた。
モータリゼーションの発達により、奥宮付近が車道化されて以降は、丑の刻参りの数は激減したが、現代に於いてもひっそりと続けられ、貴船神社本社関係者が定期的に周囲の森を巡検し、藁人形を発見すると撤去していると言う。
全国各所でもそうだが、いくら藁人形を撤去しても丑の刻参りがやまることはなく、イタチごっこになるのが実情だ。
だとすれば、丑の刻参りを忌み嫌うのではなく、受け入れればどうだろうか。やりようによっては、このイメージを逆手に取って、町おこしに利用できるのではないだろうか。
ただ、貴船奥宮の場合は本社共々由緒ある神社なだけに、そのようなことはできないだろう。しかし、小社や祠の場合は地域住民の意識さえ変えることができれば、可能ではないだろうか。
尚、一枚目画像は橋姫を奉った橋姫神社。探訪は17年も前のため、場所は正確には覚えていないが、JR奈良線宇治駅北東の宇治橋袂の五叉路から南に少し入った所だったと思う。
貴船奥宮は有名(歴史ある神社として)故、説明不要とは思うが、場所は京都市左京区貴船町。叡山電鉄鞍馬線貴船口駅から北へ貴船川沿いに3キロ弱。南東の鞍馬寺から山道を歩いて下るハイカーも少なくない。
余談だが、貴船町は京都の奥座敷の一つとして有名で、貴船川沿いの各料亭では川床料理が出る。注文した御膳の中にもみじの天ぷらがあったことを覚えている。
平日に行った私は川に突き出た特等席に案内された。
奥宮境内にある御船形石(三枚目画像)の石組みの中には五世紀頃、玉依姫が貴船川を遡上してきた際の「黄船(きぶね)」が埋まっている、という伝説がある。
「後編」では、某県の呪いの祠に焦点を当て、具体的な「呪いの人形・町おこし策」を提唱したい。
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