終戦翌日に出撃・全滅した水上特攻部隊の悲劇と謎 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[高知県の戦史史上最大の謎と悲劇]

一般の方は日本の終戦日を昭和20年8月15日だと思っていますが、軍に於ける「正式な」終戦とは、停戦協定が締結された日を指します。即ち、昭和20年8月20日、これが正確な終戦日となるのです。

 

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-震洋の架台車の車輪

よって、玉音放送を聞いた後も全国の陸海軍の各基地や陣地では、配備を解くことはありませんでした。

 

基地上空に米軍機が飛来した時は、機銃攻撃したケースもあったのです。つまり、8月15日、という日は、日米双方が「積極的な」戦闘を行わなくなった日に過ぎないのです。

 

しかし日本の領空や領海を米軍の航空機や艦船が侵犯すれば、日本軍側は自国の防衛として、攻撃することがあったのです。勿論これは国際法上でも許されることです。

 

そんな8月15日、高知県の各部隊に「敵艦発見」の報が飛び交います。高知は以前も述べたように、米軍が沖縄の次に上陸を予定していた地だけに、昭和20年、回天や震洋の特攻基地が室戸(室戸は修理・補給基地と見張所のみ)から宿毛にかけての全域に設けられました。

 

室戸から須崎までの基地を管轄する海軍第二十三突撃隊が須崎市箕越に、高知と愛媛の四国西南部を管轄する第二十一突撃隊が宿毛市宇須々木に開隊されていました。

 

そして8月16日の運命の日が訪れます。その日の夕刻、二十三突撃隊に「土佐沖に敵戦艦群見ゆ」の電文が届くのです。

 

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-隊員が飛び込んだ井戸

その日、司令官は出張中だったため、副官以下が協議し、出撃命令を出してしまったのです。

 

これを受けて香南市住吉に震洋基地を築いていた第128震洋隊は、横穴式格納壕に格納していた震洋艇、二十数艇を海岸に出し、出撃準備に取り掛かりました。

 

震洋とはトヨタ(自動車)のエンジンを搭載した、ベニア張りの一人から二人乗り用のボートで、先端に500キロ爆弾を爆装した肉弾兵器です。

 

出撃準備も終ろうとしていた午後6時50分頃、一隻の燃料に引火・炎上します。一旦、搭乗員は全員、避難したものの、十数分経つと鎮火したので、全員、艇に戻って作業を再開したところ、その一隻が爆発を起こし、更に並べられていた全ての艇が誘爆、搭乗員と整備員、111名全員が爆死したのです。

 

海岸沿いの兵舎は全て吹き飛ばされ、周辺の民家二十数戸も被害を受けました。

周辺には隊員の手足や頭部、内臓等肉片が一面に飛び散り、この世の地獄と化しました。

 

現在、その現場となった住吉港には搭乗員の像と慰霊碑が建てられ、毎年慰霊祭が執り行われていますが、霊感のある人がこの地を訪れると体調が悪くなるというので、まだ地面下には多くの遺骨が眠っているものと思われます。

 

自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-魚雷艇隊の壕跡

銅像の袂には、震洋艇を乗せて運んだ架台車の車輪が無造作に置かれています

側の住吉神社参道口には井戸が残っていますが、火達磨になった隊員の一人はここに飛び込んでいます。

 

そしてその奥には横穴壕跡があり、昭和60年頃、そこから、爆風によって生き埋めになった隊員の遺骨と共に前述の車輪が掘り出されたのです。

 

また、神社の森の北のY田氏宅も爆風の被害を受けましたが、ここの二階は部隊の将校が宿舎としていました

 

震洋艇の格納壕は全て、戦後の開発で消滅してしまいました。

尚、三枚目の画像は震洋の援護射撃をするはずだった、手結港の魚雷艇隊の壕跡です。

 

戦史の「謎」とされているのは、8月16日に米国の戦艦群を発見した者や、その情報を各部隊に伝えた者が判明していない、ということです。判明すると、この震洋部隊の爆死の責任を追及されるので、関係者が事実を闇に葬ったのでしょう。

 

今日も住吉港では、しめやかに慰霊祭が執り行われています。

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