私を襲った要塞跡の奇怪現象~大日本帝国の秘密基地(2)~ | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

※三枚目の画像を見た後で、体調不良その他に見舞われても責任は負いかねます。

[陸軍豊予要塞佐田岬地区の怪]

それは思いもよらない出来事だった。二年前のその日、今ではオクラ入りする可能性もあるガイド書「帝国の要塞と秘密基地」へ掲載するため、愛媛県伊方町の陸軍豊予要塞跡を訪れた時のことだ。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-要塞探照灯格納壕 佐田岬地区は正野に昭和2年、第二砲台施設が建造、遊歩道が整備されている岬突端周辺には大正15年、第一砲台施設が完工、そして岬の燈台下と、防波堤で繋がった御籠島に昭和20年、横穴式榴弾砲陣地がそれぞれ竣工した。


私のプロフィール画像は第二砲台地下砲側庫だ。第二砲台施設は未だに迷彩塗料がくっきりと残っている。


尾根に点在する第一砲台施設下側には燈台へと続く岬の遊歩道が整備され、週末には行楽客で賑わう。


そんな一般の観光客が目にする要塞の施設と言えば、有料駐車場横にある砲弾磨き所跡とキャンプ場の売店として利用されている司令本部跡側の発電室壕跡、そして移動式探照灯(サーチライト)格納壕位だ。


しかし遊歩道の左に時折現れる石段や踏み跡を上がって行けば、円形のコンクリート造りの半地下式観測所や地下砲弾保管庫へと続く砲弾揚げ降ろし竪穴や砲座等が次々と現われる。が、霊感のある方は絶対に辿ってはならない。理由はここでは言えないが。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-要塞発電室壕跡 一般観光客は燈台から引き返す。御籠島へと続く防波堤入口に高い柵が設けられているからだ。しかし私は身をよじって柵の下をくぐり、島に上陸した。「立入禁止」の看板がなかったからだ。


島の断崖上に何か建っているのが見える。岩をよじ上ってそこへ行ってみると、それは島の陣地壕側から海へ転落死した若い兵士の母親が戦後建立した地蔵だった。


そこから私はその兵士が転落した側にある二門の榴弾砲壕と、反対の燈台下の崖にある、同様の二門の榴弾砲壕の写真を撮り始めた。燈台下の陣地壕でも複数の兵士が事故で爆死している。


するとどうしたことか、急に心臓の鼓動が早くなり、苦しくなってうずくまってしまった。更に急激に喉の渇きも覚えた。

私にはこんな持病はないし、胸を患ったことなど一度もない。前触れもなく、こんな状態になったのは初めてである。


もしや、兵士の思念が未だにこの地に残り、無断上陸者に対して排除しようとしているのではあるまいか

だが、そんなことで撮影を中止することはできない。


自然、戦跡、ときどき龍馬~春野公麻呂のブログ~-御籠島の榴弾砲壕

一応、胸をなでながら、苦しみつつ20枚ほどの写真を撮った。しかしこの状態では歩いて駐車場まで帰れない。


30分ほど、胸を押さえたまま、うずくまっていたが、もう夕刻になるので、何とか力を振り絞って島を後にした。


島から離れると徐々に胸の苦しさも治まっていった。

帰宅後、全ての写真をパソコンで拡大して見てみたが、「不可解なもの」は特に写りこんでいなかった。もし何か写っていたら、今、私はここにいないだろう。


これをきっかけに「ある種」の所を訪れると、苦しいほどではないが、心臓の鼓動が早まるようになった。例えば四国最東端の蒲生田岬で偶然発見した、海軍レーダー跡付近の壕跡や移設のため、掘り返した跡が随所に残る古い墓地等。


それでも来年には再び戦争遺跡の探訪を再開し、最後の著書となる「帝国の要塞と秘密基地」を完成させなければならない。


[ps]

私が「不可解なもの」を目撃していたのは主に小学校の低学年頃。「不可解な写真」は'90年前後と'02年頃、ロープウェーの中や山で撮れたことがある。

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