ある師弟 | 春風亭小朝オフィシャルブログ Powered by Ameba

ある師弟

どもパー


僕が柳朝門下となり、カバン持ちとして楽屋に出入りするようになった頃、ひとりの先輩に出会いました


童顔のその人は小柄で小太り、笑顔の素敵な、でも、とてもシャイな方でした


芸名は立川談太といって、おわかりの通り談志師匠のお弟子さんです


同じ楽屋で働くようになってからは、親切に色んなことを教えてもらったり、ご馳走にもなりました


うちの大将がさぁ、と嬉しそうに師匠のことを語ってくれる兄さんですが、いざ師匠の前へでると緊張して口がきけなくなり、そのオドオドした様子が余計に師匠を苛立たせるという悪循環でした


一門の兄弟子たちも、あいつは可哀相だよな、こないだなんか、お前は太り過ぎだっていきなり腹を叩かれたんだぜ


そうそう、東宝名人会のエレベーターも、あいつだけ乗せもらえなくてさぁ

お前は階段をのぼれって言われて、師匠より早く着くために1階から4階まで全力ダッシュしたんだよ


それなんかまだいいよ、この間は師匠に睡眠薬とビールを飲まされたあと、町内をマラソンさせられてヘロヘロになってたよ


そんな目にあいながらも兄さんは、相変わらずうちの大将がさぁ、と誇らしげに師匠の日常を聞かせてくれるのです


その兄さんが厳しい修行に耐え、いよいよ真打ちに昇進することになりました


さて、名前はどうするのか


師匠は何も言ってくれません


真打ちになると扇子と手拭いを配らなくてはいけないので、改名するなら早く決めないと披露の初日に間に合わないのです


兄さん、いったいどうするつもりなんだろう


心配していた僕は、一門の方から信じられない結果を聞かされて言葉を失いました


なんと兄さんは、配り物をこしらえるタイムリミットぎりぎりで、東京駅から新幹線に乗ろうとしている師匠の後を追い、発車のベルが鳴るなかドアに片足を挟んで


師匠、僕に小談志を下さい!!と直訴したのです


師匠の前で固まっていた、あの大人しくて心優しい兄さんの、一世一代の賭けでした


師匠は戸惑いながらも頷き、ドアは閉まりました


噺家にとって、師匠の名前に小をつけた芸名をもらうというのは、大変に名誉なことですし、嫉妬の対象にもなりやすいのです


でも、兄さんは別でした


まわりの人たちが兄さんの人柄の良さを認めていたからです


それからしばらくして、兄さんはまたしても意外な行動をとります


師匠が落語協会を飛び出した後、自分は協会に戻りたいと訴えたのです

こちら側に聞こえてきたのは、寄席の高座に上がりたいからという理由でしたが


師匠と弟子が袂をわかつ時、そこには様々な思いがあるものです


とても、赤の他人が外から見て推し量れるような単純なものではありません


仮に仲の良い噺家に飲みながら本音らしきものをもらしたとしても、それは真実ではなく、理由はもっと深いところにあるものです


いつだったか、根津の談志師匠宅にお邪魔した時


まさかあいつがなぁ…と、斜め下を向きながら呟くようにおっしゃつてました


なんでも分析したがる師匠ですが、どう自分を納得させようと考えをめぐらしたところで、小談志を許すほど可愛いがっていた弟子が、自分の元を去っていった寂しさの前にはなんの力ももちません


その後、こんな事がありました


小さん師匠がまだご存命の頃ですが、僕が談志師匠に協会復帰のお願いをしに行ったのです


その時、師匠は、俺の元を去った弟子どもが協会にいるうちは戻らねぇ、とおっしゃつたので、そのことを兄さんに伝えると、普段はあまり目を合わせて話すことのない人が、じっと僕の目を見て

本当に俺がいなくなれば戻ってくれるなら、俺、協会やめるよ


談志師匠は落語界にとっても協会にとっても大切な人だからさ


迷わずそう答えたのです


結局、実現はしませんでしたが、そんな兄さんですから、体調を崩し、声がでなくなってきた最近の師匠の姿を見るのはつらかったろうと思います


さっき、新聞を広げたら、片隅に兄さんの死亡記事が載っていました


喜久亭寿楽 肝硬変で死去 56歳


この記事を読んだだけで、立川でもなければ、志の字もついていないこの噺家が、かつて談志師匠の愛弟子だったことに気づく人は少ないでしょう


兄さんは、今度こそ本当に師匠の元を去っていったのです


訃報を耳にしたら、師匠は必ず心のなかで何か話しかけるはずです


その言葉を兄さんは、どんな顔できくのでしょうか


阿武松が得意で、常に笑顔を絶やさなかった兄さん


本当に、お疲れ様でしたm(_ _)m


前座の頃に着てた、白地に紺で談志と染め抜かれた浴衣、とても似合ってましたよ ブタパー




=KOASAニコニコ