【井上勝物語】 第一話『出逢い』 | 甲子園に3度出場した男の 幸支援ブログ

【井上勝物語】 第一話『出逢い』

1981年09月08日。


長崎市に隣接する、
西彼杵郡時津町という小さな町で
私はこの世に生を受けました。



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産まれたときは未熟児で、
両親はずいぶん心配したようです。
(ちなみに今は180cmあります)



理容室を営む両親と2人の兄。
男ばかり3人兄弟の
末っ子として育ちました。



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野球に出逢ったのは
3歳上の次男の影響でした。

兄は地元の
ソフトボールチームに所属していて、
両親が練習や試合を観にいくとなると、
私もグラウンドに
連れて行ってくれたのです。


グラウンドの外にボールが転がると、
一目散にそれを拾いにいき、
グラウンドに投げかえす。

いつしかそれが私の
“一番楽しい遊び”
になっていきました。



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小学校へ入学し、
すぐに兄が所属するソフトボールチームに
入部したかったのですが、
何故だか一年生はまだ入部ができず、
私がチームの一員になれたのは
翌年の二年生からでした。



当時5年生の次男はチームの中心選手。
私にとって憧れであり、
自慢の兄でした。


そんな兄の影響もあり、
監督や先輩方には
すごく可愛がっていただきました。



しかしまだまだ2年生のひよっこ。
体も小さく、まともにバットも振れない状態。
試合など、到底出してもらえるわけがありません。



でも試合になると、
監督の一番近くに陣取り、


『代打マサルっ!!
  ねぇ監督、代打マサルってばー!!
    はよー出してよーーーーーー!!』


とひたすら言い続けていたそうです。(笑)



そのしつこさにまいった監督は、
2年生の私をたまに代打で
出してくれるようになりました。



しかし、相手ピッチャーのほとんどが
身体も大きい6年生。
素人同然のひよっこに
打てるはずがありません…。


それでも毎試合、監督の

“袖を引っ張り続けていた”そうです。

当時の監督が気の毒でなりません…。




一方、井上家ではこの頃から、
実家の車庫が
“ティーバッティング場”
へと改造されていきます。



父が友人の方からネットをもらってきて、
それらを紐で縫い合わせるように繋ぐ。


一枚になった大きなネットを
家の壁と車庫に釘で打ちつけて囲いをつくり、
まるで大きな鳥かごのようなケージの完成。

その中にペンキでバッターボックスを描き、
ホームベースを置く。


スイングのチェックができるようにと
かなり大きな全身鏡まで設置される。



『打てんとやったら練習せろ!!
     学年なんか関係なかとぞ!!』



父からは、
“試合に出るためにはそれだけの準備をしなければいけない”
ということをこの頃から厳しく叩き込まれました。
(それとも、父の目標はただ試合で結果を残すこと
 ではなく、“その先”にあったのかもしれません)




自宅でのティーバッティングは
毎日300球にも及びました。


一年間で10万スイング以上、
兄と2人で来る日も来る日も
バットを振り続けました。




こうして本格的に親子『3人4脚』での
野球人生がスタートしたのです。






〔第一話・完〕





第二話はこちら 野球