写真と俳句 | 内的自己対話-川の畔のささめごと

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日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。


 

 

今年の十月一日から、ブログの記事に写真を一枚(はじめの頃は、ときには数枚のこともあったし、栗鼠の写真の時は、十数枚一挙に投稿したこともあったが)貼り付けるようにしてきた。十一月後半からは仕事が忙しくなって、写真を撮りに出かけることもままならず、素人の自分自身にさえあまりいいできとは思えない写真を掲載したこともあった。

十月は毎日撮り続けていた。その間に、ものを見る目が少し変わってきたのに気づいた。それまでなんでもないと思っていた日常の風景やそれを構成している諸部分に注意がいくようになった。ここからこう撮れば面白いな、とか、この角度からこう景色を切り取れば綺麗だ、とか、思いながら、周りを見るようになった。ある瞬間の光と影や彩りにも敏感になった。

とはいえ、そこは知識も腕もない素人の悲しいところ、思い通りには撮れない。ほとんどの場合、あとでPCで拡大して見て、がっかりする。

人の写真は本当に難しい。相手に無断で勝手に撮るわけにはいかない場合も多いという、法的な制約という問題は措くとして、その人の表情を生き生きと、あるいはその人の人柄を伝えるような写真を撮ることができたのは、これまで数百枚撮って、まぐれのように撮れていた数枚くらいだろうか。

ただ、カメラをいつも携帯し、写真を撮り続けているうちに、当たり前の日常生活の中には、こんなにも発見されることを待っている、まだ見えていない細部が包蔵されていることが、その豊かさや多様さや意外さがわかっってきた。それらの発見に驚かされ、その驚きがさらに写真を撮りたい、上達したいという気持ちにさせる。

そんなことを思っていると、写真と俳句には共通点があることに気づいた。その共通点は、前者はカメラという機械を使って、後者は言葉を組み合わせることによって、どちらも風景の一部をある観点から瞬時に切り取って見せるところにある。もちろん、写真も俳句もこの共通点にその本質が還元されるわけではない。しかし、少なくとも、両者の実践が風景への私たちの眼差しをより注意深く細やかにし、風景をある瞬間において捉えようとする志向において重なるとは言えるのではないだろうか。