松田聖子が生まれた日~付記&須藤さん相澤さん追悼記事 | 「松田聖子」という奇跡

松田聖子が生まれた日~付記&須藤さん相澤さん追悼記事

きゅりボード、今週の聖子ちゃんランキング(~6/1)ぱちぱちぱちぱち

皆さんの投票で決める、今聴きたい聖子ソングのランキングですビックリマーク

シングルA面5曲、B面5曲、アルバム5曲、アルバム曲10曲について選曲して投票いただければ、ランキングに反映させます。
ベスト5は1位10点・2位9点~5位6点で、ベスト10は1位20点・2位19点~10位11点で加点します。
一度投票いただいたら、そのまま毎週得点は継続されますが、変更はいくらでも可能ですのでご遠慮なく。
季節ごとに聴きたい曲が変わるのが、聖子ソングですからね^^

( )内は先週の順位です目

「今週の」シングルA面ベスト5

1.青い珊瑚礁 114点(1)
2.瞳はダイアモンド 69点(2)
3.赤いスイートピー 68点(3)
4.風立ちぬ 57点(4)
5.ガラスの林檎 53点(5)


(参考までに)

6.夏の扉 49点(6)
7.天国のキッス 49点(7)
8.白いパラソル 44点(8)
9.小麦色のマーメイド 42点(10)アップ
10.渚のバルコニー 39点(9)ダウン
10.風は秋色 39点(-)アップ


『風は秋色』がついにランクインビックリマーク
この時期の歌声はもの凄いですからねえ~♪
来るべきものが来ましたよ~グッド!

「今週の」シングルB面ベスト5

1.少しずつ春 123点(1)
2.TRUE LOVE~そっと口づけて~ 98点(2)
3.SWEET MEMORIES 77点(3)
4.蒼いフォトグラフ 66点(4)
5.ボン・ボヤージュ 50点(8)アップ


(参考までに)

6.制服 47点(5)ダウン
7.レモネードの夏 45点(6)ダウン
8.Romance 45点(7)ダウン
9.レンガの小径 36点(-)
10.RAINBOW~6月生まれ 25点(-)


『ボン・ボヤージュ』が上がってきましたアップ
いいですねえ~。
『TRUE LOVE~そっと口づけて~』と並んで、初めての二人旅ソング、強いですチョキ
やっぱりドキドキ感が、たまらないですねラブラブ

「今週の」アルバムベスト5

1.Pineapple 156.0点(1)
2.風立ちぬ 119.5点(3)アップ
3.ユートピア 114.5点(2)ダウン
4.Candy 99.5点(4)
5.SQUALL 84.5点(5)


(参考までに)

6.North Wind 70.0点(6)
7.Shilhouette 51.0点(7)
8.Tinker Bell 30.0点(8)
9.Canary 14.0点(9)
10.1992ヌーベルバーグ 13.0点(10)


『風立ちぬ』が2位にクラッカー
やっぱり秋の気配のきゅりボードでしたべーっだ!

「今週の」アルバム曲ベスト10

 1.マイアミ午前5時 180点(1)
2.Only My Love 152点(3)アップ
3.ひまわりの丘 141点(2)ダウン
4.一千一秒物語 124点(4)
5.P・R・E・S・E・N・T 122点(5)


(参考までに)

6.SQUALL 96点(6)
7.水色の朝 90点(7)
8.真冬の恋人たち 83点(-)アップ
9.Sleeping Beauty 82点(8)ダウン
10.ピーチシャーベット 80点(9)ダウン


『Only My Love』が2位にビックリマーク
じわじわ来てます、来てますひらめき電球

そして『真冬の恋人たち』がランクインビックリマーク
秋どころか冬の気配だ~雪だるま

新しく投票してくださる方も、お待ちしておりま~すパー

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  

改めまして、聖子ちゃん誕生日おめでとうございまーすクラッカー

もう本文の中で散々言いましたので、以上、オシマイですw

何せ今日は目出度い日ですから、幸せな気分に浸りましょうね。



あ~、し・あ・わ・せ♡ラブラブ!

聖子ちゃん、誕生日お…、っと、っと、っと。
しつこくなるから、もう言わないって決めたでしょ、ホントに困ったオッサンだよべーっだ!

ダメだあ~。
完全に壊れてますぅ(笑)

$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学


ということで、『少しずつ春』というより、『思いっきり春』、行ってみよう~ビックリマーク

*DeepinSeikoさん、ありがとうございます!



すんげえ、歌声。
問答無用、聴けばわかるでしょ?


♪あなたと私の 春が来て
 Endless Love 愛も咲くでしょう~♪


80年代秘蔵映像、

DVD発売してくれええっっ!!
 
松田聖子さん、「DVDで販売して欲しい歌手」アンケート、

10冠達成!
圧倒的1位です!!


・夜のヒットスタジオPART2(旧センタク版) 
・ザ・ベストテン(旧センタク版)
・ミュージックステーション(新センタク版)       
・歌のトップテン(新センタク版)               
・ミュージックフェア(新センタク版)         
・歌のトップテン(旧センタク版)               
・ザ・ベストテン(新センタク版)         
・ミュージックフェア(旧センタク版)       
・ミュージックステーション(旧センタク版)    
・夜のヒットスタジオPART3(新センタク版) 

関係者の皆様、この声に、耳を傾けてください。
ぜひぜひ、よろしくお願い致します! 


SLC(Seiko,Love is all Circle)入隊メンバー募集中!

私達は、松田聖子さんの出演番組のDVD・BD販売を心から願っております。
歌手・松田聖子さんの素晴らしさをより多くの方に知っていただきたいですし、より多くの皆様と共有し、語りあいたいのです。

「松田聖子」という奇跡、を。

DVD・BD販売へのハードルは高いでしょうが、何とか飛び越えていきたいです。
皆様、よろしくお願い致します!!

$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学


さあ、タイトルこそ「松田聖子が生まれた日~付記」になっていますが、要するに雑談コーナーの始まりであります。


今回はまずこのニュースから。

3月3日、歌手の須藤薫さんが亡くなりました。

YAHOOニュースからの抜粋です。

「あなただけ I LOVE YOU」「涙のステップ」などで知られる歌手、須藤薫(本名・相馬薫=そうま・かおる)さんが骨髄異形成症候群のため3日午後1時32分、都内の病院で死去していたことが4日、分かった。
58歳だった。

「関係者によると、昨年11月に熱が下がらず同月末に入院。
その後、検査で病名が判明した。
最後は家族に看取られ、静かに息を引き取った。

須藤さんは1979年、「やさしい都会」でデビュー。
80年にはシンガー・ソングライター、松任谷由実(60)のアルバム「SURF&SNOW」でコーラスを務め、注目された。
84年に初のベストアルバム「Summer Holiday」を発売。
休止を経て、87年にアルバム「Hello Again」で再開した。


何故このブログで須藤薫さんのことを取り上げさせていただくかと言いますと、皆さんご存知ですよね。
須藤薫さんは、我らが聖子さんの曲のバックコーラスを務めていた方でもあるからです。

須藤薫さん、『渚のバルコニー』『瞳はダイアモンド』『蒼いフォトグラフ』などの曲で、コーラスをされています。

彼女については、ボッサクバーナさんやSLC影の隊員No.0 あっちゃんさんが書いてくれておりますので、リンクさせていただきますね。

まずはボッサクバーナさん。

須藤薫 Amazing Toys、聖子の憧れたシティポップシンガー

この記事の中で触れている、須藤薫さんと聖子さんの対談の雑誌については、SLC隊員No.25 ysさんがお持ちのようですから、近々画像をUPしてくれるような気がします(出ました、無茶振りwチョキ

*2013.3.21 ysさんがUPしていただきました。
ありがとうございました!

↓  ↓  ↓  ↓  ↓
別冊近代映画「真夏のときめき」/聖子グッズ

続いてあっちゃんさん。

須藤薫 「あなただけ I LOVE YOU」

この記事の中で触れられている「君は天然色」についてのエピソードは、全然知りませんでした。
この曲、もし須藤薫さんが歌っていたら、どうなっていたのかなあ。
彼女、ヒット曲には恵まれませんでしたからねえ。

ただ、いい曲は歌っていたと思います。
実は私、須藤薫さんのアルバム、何枚か、サラッとですが、確か大学生の頃、聴いていました。
このニュースを聞いてから、色々聴いてみましたけれど、知ってる曲、たくさんありましたねえ。
「涙のステップ」「セカンドラブ」「フロントガラス越しに」「あなただけI LOVE YOU」等々。
その中でも、私が好きだったのは、「セカンド・ラブ」かなあ。



それで私、須藤さんが聖子さんの曲のバックコーラスをしていたなんて、聖子ファンに復活するまで全然知らなくて。
その事実を知った時、とっても驚きましたひらめき電球
そういうプロ歌手として、立派に独立しているような人が、聖子さんのバックコーラスをやるなんて、聖子さんも凄い人たちの中で仕事をしていたんだなあ、って。

そういえば、『Rock'n Rouge』のコーラスに、山本潤子さんの名前もあるんですよねえ。
これも凄いなあ。
だって、山本潤子ですよ。
「翼をください」ですよ^^
あり得ませんってにひひ

須藤薫さんって、凄く個性的な声ですよね。
でも、バックコーラスというのは、裏方の仕事。
いかに個性を消すか、っていうことが重要になってくる仕事になるのかな。

『渚のバルコニー』、聴いてみますか。

*sayaema01さん、ありがとうございます。


う~ん、これなんか聴いても、最後の掛け合いの部分ですね、さっきの「セカンド・ラブ」の歌声は、どこにも感じられないもんなあ。
これだけの人が、自分の個性を消すって、凄いことだと思います。

聖子さん、今回のニュース、どんな風に受け取ったのでしょうか。
須藤薫さん、ご冥福をお祈りいたします祈り

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

*2013.3.12
え~、すみません、この記事書いた時は、本当にヘロヘロ状態でしたので、書き落としたことを補足させてください。

まずは、これ。

「松田聖子が生まれた日」の中で、こんなことを書きました。


これらの事例が、実は偶然の幸運ではなく意図的なものだった、という話を聞いたことがある。つまり、本人をCMに出演させなかったり、「歌;松田聖子」というテロップを初めのうち流さなかったりしたのは、戦略的なものだった、というわけである。
「実は歌っているのは他の娘だ」「こんな大人っぽい曲を松田聖子が歌っているんだ」というインパクト。
これを狙っていたのだ、と。


このくだりは、SLC影の隊員No.13 midshipmasterさんから大分前に教えていただいたこのサイトからきています。
当時、資生堂「エクボ」の広告音楽戦略プロジェクトに参加していた方のお話ですので、非常に興味深いです。
リンクさせておきますので、ぜひ、一読をオススメいたします。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
松田聖子をデビューさせたのはひとりのチカラではありません  

この話の中で、この記事を書かれた方は、聖子さんを売り出すにあたり、若松ディレクターが一人で突き進んだのか、皆が組織の力で取り組んだことなのか、という事をテーマにお話をされていると思います。
個人的には、初めの段階では、やっぱり若松さんが突っ走り、その後、「これからは松田聖子で行くぞ!」という方向性が決まった後は、組織力を総動員して取り組んだのかなあ、なんて考えています。

というのは、若松さん、こんな事を仰っているんですね。
あ、そうそう、これはこの前話したメガネおやじさんに教えていただいたサイトですね。
出所がわかったので、こちらもリンクさせておきますね。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
若松宗雄 スペシャルインタビュー

一部抜粋させていただきます。

1978年にCBS・ソニーが主催したあるオーディションの応募者のデモテープを写真も履歴書も見ずに片っ端から聴いていたんですね。
百数十本あったかなぁ。パッパッと聴いてて、その中で「ん?」と強い印象を感じた歌声があったんです。
それが聖子のテープでした。
歌のヒットって何が一番大事かというと、音楽的なことじゃなくて生理的なことなんですよ。
その人が持っている知性とか品性、そういういろんなその人自身の生理的な感性、これが聴く者の心を捉えるんですね。
そういう感性がこの歌声にはあったんです。
スーッと美しく伸びる透明な歌声、これに品性・知性・哀愁などいろんな天才的資質が絡まっている。


" エーッこれは半端じゃないないな-!!! "って思ってね。
で、当時ほかのディレクターなど周りの人達に聖子の歌を聴かせたんだけれども、実はスゴイなと感じた人はいなかったんですよね。
それに父親からは猛反対されたり、プロダクションも実はすんなり決まったわけではなかった・・・
だけど自分の直感を信じて、進めて行ったんです。



多分、最初のうちは、この通りだったのではないでしょうか。
でも、「これからは松田聖子で行くぞ!」となってから、その後は、全ての力が聖子さんに結集されたのかなあ、なんて。


それで、先程の記事の中には、興味深い言葉がたくさん詰まってますよね。


・デビューにあたってCBSソニーの若松さんが熱心だったことも、サンミュージックの相澤社長(当時)が「松田聖子にビジュアル的な面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやっていこうと考えていたためCM出演させなかった」と考えていたのも事実。


・松田聖子をCMに出演させなかったのは戦略であり、若松さんが暴走したのでも、テレビ局や大手プロダクションが反対したからでもありません。
まして、松田聖子のデビューは、だれかがひとりで踏ん張ったのではありません。
広告会社が本気をだしてチームワークで実行したものです。



・このCMのためのオーディションがサンミュージックで何回も開かれ、当時の僕のボスのサーティース・ミュージック社長の内田英樹氏は、松田聖子の歌のうまさを評価して強く押していました。
それに対して博報堂の島崎さんという担当は、本当に当時イモくさかった松田聖子の見た目がフレッシュな資生堂の新製品のシャンプーには合わない、ということで、別の子を押していました。
最終的には、サンミュージックの相澤社長(当時)の決断で、出演は山田由紀子、音楽は松田聖子、ということになったのでした。


・1980年当時の歌謡界、アイドル界は、見た目のかわいさが最重要で、歌の良さ、なんて誰も求めていませんでした。
この中心にいたのは渡辺プロと、日本テレビの「スター誕生」という番組出身のアイドルたちでした。



・「渡辺プロ風でも、スター誕生風でもない」「イモくさいけど歌のいい松田聖子をCBSソニーとサンミュージックとで押していこう」という機運があったわけで、レコード会社の一担当者が強く主張したから、進んだプロジェクトなんかではなかったんですよ。


・このCMで、歌っている子をフィルムには出演させなかったのは、戦略でした。
当時、アイドルがCMに出演するときには、BGMもその子が歌う、というのが当たり前でしたから、「実は歌っているのは他の子だ」というのは、メディア対策として有効だと考えたのです。


・CMがオンエアされ、そのうちに「歌っているのは実は出演している子ではなくて他の子らしい」と週刊誌が騒ぎ、これを受けて松田聖子を歌番組に出したら思いっきり話題になり、レコードは予想を上回る売れ行き、ということが目の前でつぎつぎに起こっていきました。
少し前ならありえなかった、歌が上手いだけで見た目の大したことない女の子が大スターになっていくことが、計画通りに、いや、計画以上にうまく実現していったのです。



いや~、これは貴重なお話ですよね。
その当時、聖子さんを売り出す為に力を結集してくださった皆様に、心から感謝いたします。

同時に、これは松田聖子だからこそ成り立つ戦略なのだ、という事を、改めて実感しました。
歌声で勝負できるアイドル、それが松田聖子なんですね。




同時に、「松田聖子が生まれた日」を書きながら、思いました。
この人の生き方は、やっぱり凄いな、と。
すみません、あんな風に書いておきながらw
私は、聖子さんの生き方を否定してるわけじゃないですからね^^
今までこのブログを読んでいただいている方にはご理解いただいていると思いますが。
ただ、あまりにも「生き方」にスポットを当て過ぎなのでは、という部分と、そのスポットの当て方のピントがずれていることに憤りを覚えるだけでしてあせる

今回は、聖子さんがデビューするまでの道のりを書きましたが、その後の聖子さんの歩んだ道のりは、それ以上に険しい道のりだった、とも言えますもんね。
自分自身であの道のりを疑似体験して、その辛さが身に沁みました叫び
それがさらに辛くなるなんて、考えただけでゾッとします叫び叫び叫び

そして、音楽性や歌声やルックスの嗜好は人ぞれぞれでしょうが、その道のりを歩む姿は、終始一貫「松田聖子」だった、これにつきます。


それとルックスについて。
たこ焼きさんからご指摘を受けましたが、ちょっと冷たすぎる書き方だったかもw

ダイアモンドの原石は、まだ河原に埋もれている。
そこにある無数の石たちと同じ、ただの石にしか見えない。

>言い過ぎました、反省しておりますガクリ
ちょっとこのあたりも含めて、いずれ書き直すと思いまーす^^



*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

*2012.3.15

え~、ここでまたまた話題は変わります…。

ここの所は、平日に皆様とコメントやり取りしたり、他のブログに遊びに行ったりして、土日で一気に記事を書き上げる、というパターンが続いておりましたが、今度の土日は記事を書けません。
来週の月曜日に卒業式があり、そこで喋らなきゃいけないので、その内容について考えたり、他にも色々ありまして。
で、聖誕日も終わったことですし、このタイミングで考えていたことを実行に移そうかなあ、と。

このブログ、暫くお休みしたいと思いますさーせん・・・

実は以前から「振り向けば…聖子」鑑賞会が終わった時点で、2~3週間リフレッシュの為にお休みいただこうかな、とは思っておりました。
でも、「俺たちの松田聖子」を書下ろしでいこう、と決めてからは、リフレッシュどころでは足りないな、と感じまして。
今回の記事なんかでも自分の力の無さを痛感している次第でございます。
まあ、それを把握する為に発表している部分もあるので、それはそれで収穫なのですけれども。
(そんなものを読ませてしまい、ごめんなさいお願い

このブログを始めて1年と10か月、ひたすら聖子聖子で突っ走ってまいりましたアップ

その間読めずにたまってしまった本なんかも結構ありまして、映画とかビデオもほとんど観なかったし、「俺たちの松田聖子」みたいなものを書くには、そういった聖子さんとは関係ない部分がむしろ大事なのかなあ、という気がするんです。
上手く言えませんが、自分の中の引き出しを増やしておく、と言いますか。

だから、そうですねえ、2か月ぐらいかな。
それぐらいの間、休ませてください。
2か月なんてアッという間だと思いますので、皆さん、よろしくお願いしまーすビックリマーク



…な~んて、思ってたら、いやー、まいりましたよダウン

何ていうタイミングでしょうか。
昨日、会社から、思わぬ宿題をいただいちゃいました。

今度私の会社のボイラーを新しいものに替えるのですが、それに伴い、高圧ガスの資格取得者が必要になる、ということで、私もその資格を取らなければいけなくなりまして。
国家試験ですから、そんな簡単なものじゃないのですよ。
しかも私はバリバリの文系、でもその試験の内容は、モロ物理・化学。
テキスト見ましたが、これ、何の暗号ですか?って感じの内容でした叫び
それこそ、聖子さんを聴いてた頃、高校で習った物理・化学の復習から始めなければなりません。
その上で法令とか専門的な事なんかの勉強が始まります。

いやー、まいった叫び
参りましたガクリ

5月末に3日間の講習を受けて、6月に一度検定試験があり、10月~11月に本試験だそうです。
会社で4人受けて3人は受からなければいけないそうです。
まあ、私以外はみんな20代なんですけどね。
何もこの中年の干からびた脳ミソにそんなことさせなくてもにひひ

ということで、リフレッシュどころではなくなってしまいました、チャンチャンべーっだ!

まあ、どうせやるなら前向きに考えたいので、これも普段使わない部分の脳ミソを刺激するいい機会かな、と開き直ってやるしかありません。
だから、戻ってきたときには、「松田聖子の歌声を熱量換算する」なんて論文発表するかもしれませんからひらめき電球

11月っていうと、さすがにこれは、アッという間じゃないですね。
試験が終わった後、すぐに復帰できるかわからないですし。
まあ、皆さんが忘れた頃に、ボチボチ記事が更新されると思いますので、その時はよろしくお願いいたします。

ということで、このブログ、当分記事の更新は無いです。
ただ、以前の記事の加筆・修正等はするかもしれません。
まあ、私のことですから、書きたくて書きたくてウズウズしちゃうことも多々ありそうですが、そこはグッとこらえて復活した時のエネルギーにしようと思っていますメラメラ爆弾ドンッ

でも、皆さん覚えていてくれるかなー。
月日はいたづらな子供みたいだしなーべーっだ!

「俺たちの松田聖子」に関しては、短距離走的な取り組みではなくフルマラソンのような捉え方で、書ける時に少しずつ、コツコツと書き溜めていきたいです。
できれば受験勉強中にも、時間を決めて少しずつ。

色々気にかけてくださっている皆様、暫く足踏みしてしまいます。
申し訳ありません汗
でも、このままでは終わらないつもりです。
な~に、聖子さんが歩んできた道のりに比べれば、こんなもの大したことはないでしょうグッド!

この1年と10か月、皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。
簡単な挨拶で大変申し訳ありませんが、別にブログを止めるわけではないので、こんな程度にしておきますスマイル
あと、コメントは随時受け付けておりますので、皆様お気軽に遊びにいらしてくださいね。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

2013.5.25

聖子さんがデビュー当時から10年間所属していた芸能事務所「サンミュージック」の創始者である相澤秀禎(ひでよし)さんがお亡くなりになりました。
享年83歳でした。
ここに慎んで哀悼の記事を追加させていただきます。



相澤会長がまだデビュー前の聖子さんを自宅に住まわせていたのは有名な話です。

相澤会長の自宅は世田谷区成城。
現在聖子さんの自宅が成城にあるのは、その辺りの事と繋がりがあるのかもしれない、と言ったら考えすぎでしょうか。
久留米から単身上京してきた聖子さんにとって、デビュー前の色んな思いの詰まった場所である成城は、聖子さんの「第二のふるさと」と言ってもいいと思います。

毎朝5時半、相澤社長(当時)自ら聖子さんを起こして、共に片道10分程の不動尊までのランニング。
「日常生活を通して、自己をコントロールする事を徹底して身につけるべきだ」
というのが、相澤さんの信念だそうです。
これは、私自身の信念とも共通するものがあり、深く共感いたします。

「人一倍、レッスンを積んだ人が勝つのさ。ステージにのぼった時の自信とは、日ごろのレッスン、さあ、がんばろう!!」
ランニングの最中、相澤さんは聖子さんに毎日のように、本人が自信が湧くような話をしていたそうです。
そして不動尊に着くと2人で両手を合わせて、祈ります。
「私は、絶対スターになる。誰よりもたくさん、厳しいレッスンを毎日積んでいますから」

いつデビューできるともわからない不安な日々の中で、こうした毎日が、聖子さんにとってどれ程の励みになった事でしょう。
どれ程の力になった事でしょう。
多分、その当時は、毎日を必死に生きていただけで、聖子さん自身、そんな事は考えていなかったと思います。
きっとデビューして何年か経ってから、ああ、あの時のお蔭で今の私があるんだな、って感じるようになってのではないでしょうか。


そして相澤会長が亡くなった今、きっと聖子さん、あの日々の事をつい昨日の事のように思い出し、懐かしみ、胸がいっぱいになっている事と思います。
聖子さん、ランニングの時、決して相澤社長よりも前を走らなかったそうです。
社長の前を走ったら申し訳ないと思っていたようです。
今、聖子さんの脳裏に浮かぶのは、自分の前を走っている相澤さんの大きな背中なのかもしれません…。

聖子さんと相澤さんの関係は、社長とタレントというビジネス繋がりというよりも、父と娘のような感じに近いものだったのでしょうね。

そんな父と娘も、長い間、距離を置いていた期間がありました。
聖子さんがいよいよ全米進出を視野に入れ始めた時、方向性の違いから、2人は袂を分かちます。
聖子さんが独立する事が決まった後、聖子さんから相澤さんに何回か電話が入りますが、相澤さんはその電話に出なかったそうです。
これなんか、都会に出ていく娘を許せない頑固オヤジみたいです。
それから17年後、聖子さんが相澤さんをディナーショーに招待、そこでステージから相澤さんを紹介します。
その時、相澤さんは聖子さんに謝ったそうです。

「ずっと一人にしといてごめんね」

サンミュージックから独立してからの聖子さん、ファンティックは個人事務所でしたから、一言で言ってしまえば力が無いんですね。
マスコミに対して無防備でした。
聖子さんはサンミュージックにいた頃から、色々バッシングは受けていましたが、独立してからのバッシングはそれを遥かに上回るものでした。
聖子さん、当時、芸能マスコミから「ノン・クレームアイドル」なんて言われていたそうですね。
まさに好き放題書かれていました。
彼らの恰好の飯の種でしたから。
これは、このブログでもさんざん書いてきたように、聖子さん自身が決して公の場では反論しない、言い訳をしない、他人の悪口を言わない、という姿勢を貫いてきた事もあると思いますが、それ以前に、聖子さんを守ってくれる高い壁のような存在が無かった、というのが大きかったのではないでしょうか?

多分その時にしみじみと感じた部分もあったと思います。
サンミュージック時代の自分が、いかに守られていた存在であったか、という事を。
親元を離れて初めてわかる親の有難味ってありますからね。

聖子さんは、お父さん、大村雅朗さんに続き、またもや大きな存在を失ってしまったのですね。
生きていくという事は、大切な人を失っていく事なのかもしれません…。



結婚前の聖子さんは、超ハードスケジュールでした。
それが喉を痛めてしまう原因の一つである事は、間違いないでしょう。
その事については、私も以前、1981年の夏コンについての記事の時に、こんな風に書いた事があります。

~これじゃあ、休んでいる暇もないですよね。
ツアー中心で活動していたアーティストの方ならいいと思いますよ。
でも、聖子さんの場合、歌番組、バラエティ番組、CM撮影、グラビア撮影、ラジオ番組、映画撮影、レコーディング、等々、その忙しさは半端じゃなかったわけですよねえ。
その中でのこのツアースケージュールは過酷すぎますよ。
そりゃ、喉も痛めますよ。
事務所も、もうちょっと考えてあげて欲しかったなあ。~


こういう気持ちは今でもあります。
ただ、冷静になって当時を振り返ってみますと、聖子さんに限らず、超人気アイドルは、悪く言えば「使い捨て」のような部分があって、こういうスケジュールを組まれてしまうのが当たり前、のような時代でした。
だから、今の価値観で当時の事務所のやり方を非難するのは、ちょっと可哀想な気もします。

それと、ハードスケジュールに自ら立ち向かっていったのは、他ならぬ聖子さん自身、という部分もあるでしょうし。
何せ手抜きをしない人ですから。
例えば高校野球のピッチャーが、甲子園の大舞台で、肩を痛めていても全力投球してしまう、そんな感じに近いでしょう。
もちろん、だからこそ、事務所サイドがそういった所も考慮に入れてスケジュールを組まなければならない、というのは正論ですけれども。
実際、聖子さんの体調がとっても悪い時に、入院を勧めるスタッフに対して、楽屋に医師を待機させても予定通り続けたいと強硬に言い張って、スケジュール通りツアーを終えた事もあったようですし、逆に、それでもステージに立ちたいと哀願する彼女を振り切り、相澤さんの判断でコンサートを中止した事もあったようです。

この辺りの事については、色々な考え方があると思いますが、このお二人の親子のようなつながりを思う時、相澤さんが聖子さんの事を「稼げるだけ稼げる使い捨てアイドル」とビジネスライクにのみ考えていたわけではない事は間違いないですし、そこにしっかりとした愛情を感じます。

それは聖子さん自身が、誰よりも感じていることでしょうね。

CBSソニーの若松ディレクターが、無数に転がる石っころの中から見つけ出した「松田聖子という奇跡」の原石。
その原石を磨き、「松田聖子という奇跡」をこの世に送り出した、相澤さん。
若松さんと並び、この人無しには「松田聖子という奇跡」は世に出なかった、私たちの大恩人ですね。

相澤さんのご冥福を、心よりお祈り致します。

聖子さんにとって、芸能界のお父さんのような存在だった相澤さん。
この訃報を聞いた時、私はこの曲が聴きたくなりました。

『Dear Father』。

亡くなったお父さんに向けて、聖子さん自身が98年に書いた曲です。
今回の相澤さんの訃報を聞いて、すぐにこの曲が連想されたのです。
実は、私自身も先月父を亡くしまして、その事もあったのかな…。
ちょっと感傷的になってしまい、申し訳ありません。

*seikotoyuujiさん、ありがとうございます。


最後に、相澤さんと聖子さんの、何気ないエピソードを。

仕事をすませて会社に戻りますと、秘書課の女性が私にメモを差し出しました。
下欄に銀行の広告が入っているその小紙片には、
『お部屋をお借りいたしました。「秘密の花園」の衣装の打ち合わせのために―聖子』
マンガチックな文字が、いかにも〝衣装の打ち合わせ″らしく晴れやかさを感じさせています。
空いている部屋がみあたらなかったので、秘書室を使ったらしいんです。

彼女は、ひじょうに伝言上手です。
来社したさいに私が外出したりしていますと、
『では、またあとで―聖子』
ひと言メモを、私のデスクに置いていくのです。
ほとんど一行メモ。
でも、小さな紙に縦に横にときには斜めに書き、ときにはユーモラスな絵がそえられていたり……いきいきした雰囲気が伝わってきます。
いかにも聖子らしい。

そこで私は彼女に内緒で、小箱の中にそれを大事にしまってあります。
『バレンタインデーです。チョコレートをどうぞ』
『明日は、社長さんのお誕生日。お似合いのマフラーをこれから買いに行ってきます』
『着がえをして「ザ・ベストテン」に出かけてきます』
どれもこれも、一度読んで捨ててしまうには惜しい気がするものばかり。

(「松田聖子のバランスシート」相澤秀禎著より)

$「松田聖子」という奇跡~ひとりよがり哲学


まさしく何気ないエピソードですが、このお二人の様子がよく伝わってきますね。
聖子さんのメモを、ニコニコしながら小箱にしまう相澤さんのお顔が、目に浮かぶようです…号泣