『Mr.ソクラテス 』を見た。
情けないチンピラだった主人公(キム・レウォン)が、「勉強」することで、最後には正義の刑事となるカッコいい映画。
ところで、英語の「to study」の翻訳は東洋三国でそれぞれ違い、中国では「念書(ニェンシュウ)」とか「読書(ドゥシュウ)」というが、日本では「勉強」である。「勉強(ミェンチャン)」とは、中国語では何かを無理強いするという意味だ。
どうしようもなくサイテーのワルだった主人公に、文字通りこの「勉強」をさせたのは、意外にもヤクザの組織。
警察内部に自分らの手先として忍び込ませるために、彼を廃屋になった学校に監禁して、ソウル大の学生を脅して無理やり教えさせ、居眠りすれば逆さづりで水責め、線路に手錠で縛り付けて、電車が来ているのに、数学の答えを出すまでカギを投げてあげない。
そんな方法で試験に合格し、極悪非道のスパイ刑事になったはずの彼だったが、ヤクザの思惑とは相反して、「学ぶ」という行為は彼の人間性をも変えてしまった。
ムショ暮らしをする父親に、刑事になったことを報告に来た主人公に、父親は「泥棒と刑事に差などあるか。お前のようなヤツが刑事なら、どっちも同じだ」とこき下ろす。
「お父さん、泥棒と刑事の差が何だと思いますか? 泥棒には人生観がなく、刑事にはある。泥棒は死んでも泥棒として死に、刑事は死んでも刑事として死ぬんです」
父親は息子に謝り、「お前は人間になった」という。
●「工夫(공부)」とはカンフーだ!
さて、韓国では「to study」をどう訳したか。「工夫(コンブ)」である。中国の宋の時代に朱子学で多く使われたこの言葉は、日本ではご存知、「工夫する」の意味で伝わったが、現在の中国では、体の業の鍛錬、成就の意味であり、いわゆる私たちのよく知っている「工夫(カンフー)」なのである。
もともと、「成就を助ける」という意味で「功扶」の字だったものが、省略されて、「功夫」や「工夫」と書かれているのだが、韓国が最も重んじた儒教朱子学では、勉強とはそのように、人間が自らの欲をコントロールして「聖人」となる鍛錬の道だったのである。
すなわち、勉強とは、生きた体の習いでなければならず、生活の中における頭のカンフー、熟達でなければならない。
地獄の勉強特訓をしていた主人公のトレーニングウェアの背中にはいつも、孔子の「学而時習之、不亦説乎」(『論語』学而編1)の文字が書かれていた。いわゆる「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや」である。
人の一生を通して年代ごとに、そして1年の中でも季節ごとに、1日の中でも時間ごとに、「時」に適っていつも学び得ることが違う(学而時)ということであり、それを習う(習之)ということの喜びである。
主人公も、時に適って学んでいく。
すなわち、刑事になってみれば、実際、本当の悪いヤツは、法を利用し、法の保護を受けながら、最も悪いことを行っていることを学んだ。
しかし彼は、その同じ法を利用して悪人をつかまえようと考える。ソクラテスの言葉「悪法も法なり」を引用しながら…。
朱子学の国・韓国で、「工夫(공부)」とは本当の意味での聖人となる道。だからこそ、学んだ男がカッコいい、のだ!
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