『アイルランドのウサギたち第3巻』の執筆がなかなか進まない。
第3巻はしょっぱなから「動物愛護団体」について語るので、現在数冊の本を読んだり、ウェブ検索をしたりと読書と思索に余念が無い。
当初「動物愛護団体」との言葉に対し、常識を無視した過激な団体とのイメージしかなかったので、前巻ではダブリンSPCAなどを「動物救護団体」と称した。
「救護」としたのは、実際に現実社会と向き合い、虐待され疎外された動物たちを「救い護り」、これら虐げられた動物たちに希望の未来を提供している行動の人たちゆえに、あえて常識外れの輩と区別するために用いたものだ。
実際に勉強するうちに理解しだしたのは、日本の役所が運営する愛護センター、戦後しばらくしてから設立された愛護協会などは、吾人が称した「救護団体」で、過激な活動をして「動物愛護団体」との名称に悪い印象を与えてくれているのは「動物権利団体」と呼ばれるものであることだ。
「動物権利団体」に関しては、感情的にではなく、公正に彼らの功績も含めて拙著で述べる予定であるので、ここでは置いておく。
参考資料として読んだ本の一つに『ゼロ!熊本市動物愛護センター10年の闘い』片野ゆか著 集英社e文庫がある。
感想だけ簡単に言えば、役所勤めの人間は捨てたものではないちうことだ。
とは半分冗談であるが、まるで処刑場のような動物管理センターから、殺処分ゼロの動物愛護センターへとの変遷に、職員たちの涙と忍耐の物語が綴られている。
予算や施設に限りがある中で、より多くの命を救おうとの努力には、感動以上に尊敬の念を抱いてしまった。
泥沼の中を這いつくばるような熊本市動物愛護センターを思いながら、ダブリン動物愛護センター(DSPCA)を訪問した時に感じたのは、ダブリンの方はすでに宏大な敷地に施設があり、テレビでも番組になっているようで、熊本市以上に恵まれている環境にあるのではないかと。
が、これは外見を評したものであって、実際は熊本市のように涙と忍耐で発展してきたのかもしれない。
オランダやドイツなどは例外かもしれないが、どこの国でも動物を虐待し見捨てる可哀想な心の人間がいる。
しかしそれ以上に、慈しみの手を差し伸べる崇高な心の人間が増えてきていることも事実であろう。
以前にもブログに記したが、「衣食足りてペットを知る」で、ペットを思いやることは生活がそれだけ豊かになっている証拠であり、心にも豊かさが芽生えている証拠なのではないか。
動物愛護センターが忙しいのは未だ良い結論ではないが、季節を経るごとに人々の関心が寄せられ、施設も改まり、殺処分ゼロへと向かうことは、新たな常識を生み出す革命的な流れであると信じたい。
どの大樹も、そのはじまりは小さな種であり、風雨にさらされ耐えながら樹齢を刻んで霊気漂う巨木となるものである。