子供のときはやたらと模型に狂った。いまでも、街には模型屋がある。わたしの小学生のときは、家の向いに模型屋があった。低学年のときは、まだプラモデルというものがなく、模型といえばすべて木製であった。戦艦が多かった。巡洋艦や重巡などの名前まで諳んじていた。最上や愛宕など、川や山、地名をそれで覚えた。紙箱に入っている木ばかりの部品は、設計図に則ってボンドでくっつけてゆくのだが、プラモデルのように番号が書かれているわけではない。あまりにも部品が多いと何がなんだか判らなくなる。中学生のお兄さんたちは、長さが1メートルを越える戦艦大和を作っていた。その現場を毎日覗きに行った。小さい子の小遣いではとても高くて買えない。組み立てが終ると、本体にグレーのラッカーを塗る。喫水線より下は赤いラツカーを塗った。
 それと熱中したのがゴム動力で飛ぶ飛行機だ。裏の寺の隔地でよく飛ばした。誰のが一番滞空時間が長いかで競い合う。いまでも売っているが、子供らが飛ばしているのはあまり見たことがない。胴体は一本の木で、それに竹ひごのたわめたもので翼をつけてゆく。着ける部分にはアルミ管が使われた。仕上げに紙を貼って、霧吹きで水を吹くと、乾くとぴんと張った。ブロペラを指で回してゴム紐をねじってゆく。

 男の子一人であったので、親父はわたしにだけは何でも買ってくれていたと姉たちはいまでも言う。わたしが飛行機が欲しいというと、あるとき、大きな紙箱を携えてきた。それは小学一年にはかなり難しい大きなグライダーの模型であった。設計図の見方が第一判らない。木ばかりの部品が何が何なのかさっぱりと判らないで、いつものように癇癪を起して泣いていたら、仕事から戻った親父が、しぶしぶ、作るのを手伝った。滅多に子供の面倒をみる人ではなかったが、そのときばかりは、自分で買ってきたものだから、少しは責任があると思ったのだろう。図面に部品を並べてゆくことから始めた。主翼の骨組みから作り始めて、それを傍で見ていて、そのときばかりは親父を尊敬したものだ。ところが、一時間もやっていると、面倒になったか、「後は、これを見て、自分でやりなさい」と、逃げてしまった。主翼だけができていて、その後はやはりそのまま、未完成のグライダーはいつまでもそのままであったことを覚えている。かなり大きなもので、わたしの両手を拡げたより大きかった。

 わたしが小学校3年くらいからプラモデルが流行した。そうなると、飛躍的に模型は実物のスケールモデルに近くなる。木の模型は衰退し、様々なプラモが一斉に出回る。自動車は、パブリカや日野コンテッサ、スバルR360とか、ホンダスポーツS500だったか、なんといっても憧れはプリンススカイラインだ。後にニッサンのスカイラインになる。
 男の子たちは、町行く自動車の車種は大概言えた。モーターを入れて走るプラモも出回る。マブチの小さなモーターに乾電池が入って、その速さを競う大会が模型屋の主宰で公園で行われたりした。
 子供らがプラモに夢中になっているときに、高校生のお兄ちゃんたちは、小さなエンジンで飛ぶUコンを広場で飛ばせていた。ラジコンはとてもまだ高いもので、それも飛ばせている大人を見たことはあるが、Uコンなら主翼の端に細いワイヤーをつけて、その片端を手で持つと、ぐるぐると円を描いて飛行機が飛ぶ。本物のエンジンなので、迫力ある唸りがよかった。初夏の青空で、エンジン音が鳴っているのは大概、そのUコンだった。あれは、燃料が切れるまで飛んだのだろうか。子供ながらに止めるスイッチがなかったように疑問を抱いた。

 小学四年になると、子供の小遣いで買える小さなプラモがグリコのおまけのようにいっぱい出た。それを毎日のようにせっせと買ってきては、組み立てて遊んでいた。我が家の三階には屋根裏部屋があり、一番上の姉がアトリエとして使っていたが、そこの棚という棚を飛行場にしてしまう。小さいプラモの戦闘機をずらりと並べていた。ユンカース、メッサーシュミット、スピットファイヤー、グラマン、紫電改、一式陸攻と世界の戦闘機や爆撃機の秘密基地ができていた。
 わたしの祖母が死んだとき、棺の中に大事なものを入れてあげることにしたが、わたしが出したのは、大事なゼロ戦であった。ところが、葬儀屋さんは、燃えないプラスチックのものはダメだと断られた。そのときから、燃えるものと燃えないものの分別があったのだ。子供心にがっかりしたことを覚えていた。

 小学の高学年になると、ただ飾るだけのプラモでは満足せずに、電池ケースとスイッチをトランプのプラスチックケースを利用して自分で作り、戦車を前進後退できるように改造したりした。戦車の名前もほとんど知っていた。そうした情報は月刊雑誌から得ていた。愛読書は、『模型と工作』などであったが、うちの古本屋に一冊も入ってきたことがない。あれば見たいと思う。田宮はまだあるが、カタログなども見ては楽しんでいた。軍国少年ではないが、子供のときは、みんな、兵器の玩具を集めたり、ミリタリーに憧れたものだ。プラモで一個師団を作るまで集めてご満悦の友人もいた。
 プラモはいろんな色のラッカーを塗って自分だけのカスタマイズしたものになってゆく。ついてくるシールを貼るだけでは満足しなくなったのだ。派手な色に塗り、どうだと見せびらかしにくる友達もいた。

 夏休みの宿題で工作があった。それは教室に展示して、校長先生が賞をくれる。金銀の賞もあり、いい作品には札が貼られた。そうした宿題はプラモではダメで、自作のものに限られる。わたしは、いつも度肝を抜く作品を作って出した。大きなクレーンを模型屋から細い角材を買ってきてセメンダインで接着し、黄色いと黒の色を塗り、ちゃんと回転してハンドルを回すと、ものを持ち上げるようにした。高学年の児童は、「あれは、親に作ってもらったんだ」と噂していたので、わたしは悔しがって否定した。
 ジオラマも得意で、ボタンを押すと、灯台の灯がついたり、船の灯りが点灯したりした。砂や貝もいくらでも海に行けばあったので、そうした素材集めには苦労はしない。

 テレビで外国の番組を放映していたのに、スーパーカーがあった。そのブラモデルも売り出すとさっそく買ってもらった。わたしの宝物のひとつになる。お気に入りであった。わたしが中学に上がると、親父の得意先の社長と息子がうちに遊びにきた。その子はわたしより年下の小学生であったが、遊んでやると、そのスーパーカーが欲しいと言い出した。親父は、上げなさいと、いとも簡単にわたしの宝物をその子に上げてしまった。思えば、そのときに模型熱はすでに冷めて、吹っ切れたのだと思う。以来、作ることも集めることもなかった。
 少年も少しずつ大人の仲間入りをするようになり、プラモデルの自動車もそのうち免許をとって本物に乗ることになり、飛行機にも乗って、現実世界のリアルなものへと関心が移行して行ったのだ。ママごとをしていたのが現実のママに怒鳴られて、「ゴミはちゃんと捨ててよ」と、冷めた夫婦関係に縛られると、あの小さな玩具の世界がとても懐かしく思い出された。