須藤保さんは、長く詩を書かれていたが、ずっと本名であり、後半からいろんなペンネームを使いはしたが、もう書かないことを断言してからのことだ。やはり、それでもどうしても詩に戻ってきてしまう。

   秋野行 3

……
忘れられた案山子達は
思い思いに野垂れ死をし
飢えたカラスは無心に
臓物をちぎっている

へのへのも
へのへのも なんとも不思議な
ものの怪につかれた様な
間抜けた顔よ
……

 須藤さんはどうして若いときの一冊きりで、その後詩集を出さなかったのか。冗談で、死んだら遺稿詩集を出してあげますからと、わたしは言っていた。それにも照れながら、そんなもんはいらないよと拒否するのだった。わたしの詩の師と仰ぐ人であったが、最後に交わす言葉もないままに、病院で生命維持装置を装着されたまま息を引取った。
 意識のない須藤さんを病室に見舞ったときのことを、わたしは『冬のポプラ』という散文に書いて、知る人たちに送ったことがある。そこに須藤さんの詩に対する考え方が書かれているから、須藤さんへのレクエイムとして載せてみたい。

   冬のポプラ

 わたしは古本屋の客と老詩人のSさんの話をしていたところだった。年輩客が多い店だから、ある日突然に来なくなると、大概は入院しているか、新聞の死亡広告覧に載っていたりする。Sさんもふつりと姿を見せなくなった。古本屋は本読みたちの溜まり場で、そこに行くと本の話ができると、毎日のように年寄りたちが別に本を買うわけではないのだが、油を売りにくるのだ。
 Sさんはわたしの詩の先生でもあり、かつての同人仲間でもあった。二十年のつきあいになる。どこかわたしの祖父に似ていて、頑固で情張りなところまで似ていた。それで親しみを感じて、よく呑み歩いた。本もせっせと店に持ってきては、代金を受け取らない。本が好きで、絵も嗜んだ。山歩きもよくした。単眼鏡を見せてくれて、野鳥の観察もしているという。そう云えば、Sさんの家によくお邪魔したが、庭はよく手入れされてあり、いつも小鳥が来る餌台があった。
 若いときから自然の中を歩いてきたので、浅黒い色をして細い目で笑ったが、眼光の鋭さには怖いものがあった。七十を過ぎてからは何か激しさが錆びてきたように、言葉に怒りも感じられなくなった。すべてをどこかで諦め、ダダイストのような云い方もしてきた。若いときから左派の闘士で、いまもそのほむらは消えることはないが、年とともに次第に投げやりな云い方をするようになった。
「喜多村くんよ、世の中はそれほど笑い転げるほど面白いものではなし」とか、
「詩を書くというのは、パチンコをしたり釣りをしたりするのとなんら変わらない。たかが言葉遊びだ」と、口癖のように云った。そして、あるとき、同人のみんなに同じ質問をした。
「書くことに命を懸けていると思うか」
 大概は真剣に書いている仲間が多く、そうだと答えると、笑い飛ばした。
 Sさんは若いときにたった一冊の詩集を出したきり、それから五十年の間、一冊も上梓していない。わたしは、Sさんに、
「そろそろ、書いたものがまとまったでしょう。詩集を出してみませんか」と、執拗に勧めたものだが、首を横に振り続けた。古本屋を回っていて、本自体が売れない。まして、詩集というものは全く売れないのを知っている。誰も読まない。ホテルで豪華な出版記念パーティーまでするのは恥ずべきことだと、そんな華やかなものではないと、自らの無名であることを誇るように、風に消えてなくなる詩ばかり書いてきた。決して表舞台には出ない。どうせ残るものなどないのだと。

 今年の正月、賀状がSさんより三日遅れて返事のようにきた。賀状というものは存在証明のようなもので、一年に一度生死を確かめ合うのだ。その賀状に一言、「入院しています」と、書かれてあった。やはり、いつも来る人が来ないからそうではないかと思った。早速、自宅に電話を入れてみた。息子さんが出て、病院を訊き出した。見舞いに行くというと、何か都合の悪いような云い方をしたので、面会謝絶なんですか、と訊いた。そうでもないらしい。あまり判然としない応対だった。
 後で、店にSさんの奥さんから電話があった。
ー賀状に入院と書いたのはわたしです。喜多村さんにだけは知らせておこうと思って。ほかの誰にも教えていないんです。お見舞いはありがたいのですが、多分、行かれても誰が来たか判らないでしょう。
ー一体、何の病気なんですか。
ー蜘蛛膜下で、一月前に入院しました。年末までは返事をしていたんですが、年明けてからは、意識がなくなり、脳が萎縮してきているというんです。
 わたしはすすり泣く奥さんの声に衝撃を受けていた。行っても無駄だからと云われても、どうすることもできず、わたしはその夜、車を郊外の病院へと走らせていた。前に前立腺で入院したときは、店の本をどっさりと持っていった。いまは、花も見ることができないし、匂いすら判らないのだろう。食べるものも駄目だとすれば、何を持っていったら喜ぶだろうか。
 新しく郊外にできた大きな総合病院の五階に、脳外科はあった。わたしは夜の人気のない寂しい廊下を通って、エレベーターで五階に上がった。ナース・ステーションでSさんの病室を訊くと、すぐに教えてくれた。広いフロアの病室がかなりあるのに、看護師は意外に少ない。廊下にも誰もいない。八時というのに静まりかえって無人の病院のようだった。普通なら付き添いや、家族がいたりするのだが、まるで真夜中の病院のように人っこひとりいないのだ。機械の音だけが規則的に聞こえてくる。わたしは、何かの工場に足を踏み入れたような錯覚を覚えていた。
 病室の入口はドアが開放されたままで、室内が廊下からでも見えた。入口にSさんの名前が貼ってある。四人部屋で、それぞれのベッドには老人ばかりが、みな機械を装着して横たわっていた。さっきから廊下に聞こえていた音はそれだった。わたしは、この病室に入って、人の気配のしないことに気付いた。Sさんの名前のあるベッドには、ひどく別人になったようなSさんと思われる塊があった。口に太い管を通して、人工呼吸の機械に繋がれていた。点滴と排尿の管、そして、すべて中央のコンピュータにデータが送られている心電図、脈拍、体温計と、まるで修理されているロボットのように線で繋がれているSさんの肉体だけがあった。
「Sさん……」と、呼んでみたが、反応はない。寝ているようでもあり、虚ろな目を少しだけ開いて、笑っているようでもあった。それは、もう詩をうたうことのないSさんの抜け殻だった。機械という生命維持装置でただ生かされているだけの。すでに、わたしからものすごく遠いところにいるような淋しさを覚えた。
 機械の電源を切ると、Sさんの抜け殻も死ぬのだろうか。痩せていた骨ばったSさんがますます細く見えた。頭の包帯も痛々しい。付き添いの必要もないのだった。すべて機械が面倒を見てくれる。みんなこんな患者ばかりのようだった。だから、無人に近い病院だったのだ……。

 わたしは、別世界から脱出してきたように、病院を駆けて出てきた。煌々と電灯が各階に点いていた、近代的なビルの中では何十人という患者の生命をコンピュータが管理している。わたしは、雪の降る中、息を切らして車に乗り込んだ。首を横に振り続け、すべてを否定していた。
 車は狂ったように急発進した。ヘッドライトを上向きにして、住宅街の広い雪道を走った。突き当たりに街路樹がまるで恐ろしい化け物のように高く連なって見えた。それはまたSさんの茫洋と立つ姿にも似ていた。信号で止まった。ヘッドライトに浮かんだのは、太い幹と細い枝が真っ直ぐに冬の天を突くようにして立つポプラだった。老木は枯れてもすくりと真っ直ぐに立っていた。