斉藤小夜子さんは、いつも着物をきちんと着て、五所川原から合評会においでになられる。気品のある方で、合評会はいつも決まって青森の中心街の喫茶店であったが、そこにいるだけで場の雰囲気が和んだ。わたしの書いた詩には、いつも筆文字の達筆で、和紙に書かれた評を送ってこられた。


   眠りの岸辺に


人の話し声が聞こえている
風が入ってきたのか 襖の鳴る音もして
聞きとれないままに
遠のいたり 近づいたりしている
……

 全国の主婦たちが生活詩を書いている「野火の会」というのが高田敏子の主宰で立ち上げられ、小夜子女史もそのメンバーであった。日常の判り易い言葉で、生活を詩うという主婦の立場からの発信は、ひとつの文芸運動のようになった。難しいことはいらない。さらりと書いてみせる。女史の書く詩には津軽平野の農家の嫁の姿もあり、その辺は桜庭恵美子さんとも通じる詩ではあった。


 福井愛さん。彼女はわたしより六歳は上だと思った。年の割にはずっと若く見えた。姉御のような態度で、わたしを弟のように呼び捨てにするところはしびれた。男勝りのようでいて、いつも笑顔が絶えない人であった。同じく詩を書く仲間で、善知鳥だるまの伝統工芸継承者でもある福井強さんとは従妹の関係だと、後で知ることになる。


   行き先

……
どんな生きざまでいようと
人の思いは故郷なのだろうか
今度こそは行き先の違うバスに乗ろうとしても
なぜかいつもバスの行き先は同じなのだ


 ジプシー・キングスが好きで、いつも口づさんでいた。気さくで明るい女史にも長年の病気という深刻な悩みもあったはずだが、それを顔には出さない。詩もいつも明るいものであった。何年か前に、旦那さんからわたしに電話が来て、彼女が死んだことを知らされた。うちの古本屋に顔を出さなくなったら、みんな死んでいた。福井さんは若いときに持病のために長生きはできないと宣告された。いつも死を覚悟しての人生であった。それだから、ふらりとどこかに旅に出たかった。そして、今度はきっと、違う行き先のバスに乗れたのだ。郷里には戻れないバスに。


 倉内智男さんは途中から同人になられたが、若いときから詩は書かれて、鮎川信夫に傾倒していた。積極的に同人に参加し、詩集も自費出版でどんどんと出していた。わたし好みの詩を書かれていて、あまり話したことはなかったが、手紙はよくいただいた。


   歩いていくもの

……
ぼくの心を繋ぎとめている絆をひきずって
落ちる夕陽の向こうに
兵士のように歩いていく……
地平線が円く拡がることのないところに
このありあまるかなしみを置いてこようと
ああ いまぼくのなかを
兵士のように歩いていくものがある

 この詩は、弘前の水星社から出された『倉内智男詩集』から引用した。晩年の倉内さんは病気を引きずったまま、少し危険と思われる神の領域へと足を踏み入れた。震える文字で書かれ哲学的なハガキをいつもいただく。それに答えることはできなかった。