わたしが詩を書き始めたのは、高校に入ってからだ。中学のときに国語の先生に誉められた詩がそのきっかけを作った。大学ノートに勉強の合間に書き溜めた詩が10冊ぐらいはあったか。その中で女学生雑誌と学生新聞に投稿した詩が取り上げられた。詩を書いているとは、誰にも言えない趣味で、恥ずかしいことのように、家族にも見せなかった。
 大学に入ってからは、文学研究会の中の有志で作っていた詩のサークルに入った。合評会では、荒地派の詩の研究も兼ねていて、わたしよりずっと勉強している仲間の発言で、とてもついてゆけないと、二回ぐらい出たがやめてしまう。
 社会に出てからは、あまり詩どころか本を読むこともなくなり、三日に一度酒を会社の連中と呑み歩くことだけで、創作もしなくなる。それが、仕事で壁にぶつかり、悶々とした日々の中で、メモ用紙に詩をまた書き殴ることをはじめた。職場の仲間には言えないことを、わたしは誰かに伝えたかった。たまたま見つけた詩の同人誌を名古屋の書店で買うと、「サロン・デ・ポエム」という同人誌に入会して、同好の士に巡り会えた。その中には亀山巖さんや佐藤経雄さんがいた。

 人生で順風のときは、詩を書くことはなく、苦しくなると、ノートに戻り、言葉としての逃げ場所がいつも詩であった。東京で書いた詩のノートは大阪から名古屋、札幌と冊数を増やしてゆく。同人になることもなく、いつも一匹狼でいた。それでいて、試してみたいと、あるとき、郷里の新聞に出ていた青森県詩人連盟賞というのに原稿用紙に書いた詩を出してみた。それは落選したが、わたしに詩人連盟に入るように勧誘に来た方がいた。陽に焼けて痩せた体に鋭い眼光の持ち主、須藤保さんと言った。その何年か前に亡くなったわたしの祖父によく似た顔で、何か他人のような気がしなかった。
 同じ頃に、別の詩人会議というのもあり、そこからも誘われた。塩崎要祐さんと言った。うちの親父の知り合いで、親しそうに昔話をしてくれた。そこの会報にも詩を書いた。それはひ弱な甘い詩であったので、どうも不評のようで、同人たちの詩を読ませてもらうと、生活詩だが、もっと力強いものがあった。反戦というプロパガンダが多く、生の言葉を直裁に使うのに抵抗があって、どうも肌が合わない。それでも、わたしの義母が長崎で被爆したことを暑中見舞いの手紙として書いた詩は全国の詩人会議の雑誌で取り上げてくれた。

 須藤保さんは、詩の同人誌を立ち上げた。『銀漢』という小冊子で、隔月で定期発行するというものに、わたしは3号から誘われて加わった。そのときのメンバーは、山村秀雄、平澤賢幸、谷村茂夫、福井愛、氷野まり子、斉藤小夜子、谷山越郎各氏と、主宰の須藤保さんとわたしで9人のメンバーであった。創刊から、表紙のデザインとカットは鈴木正治さんが無償でやってくれた。後に、同人として入ったのは、西郡泰、長利友子、古舘ゆたか、竹内夢智子、倉内智男各氏などがいた。その中で、いまもご存命なのは、谷村、氷野、谷山、西郡、長利、古舘、竹内の7名だけで、半分が亡くなっている。創刊から50号まで続いた『銀漢』は、原稿が集まらず、同人も減って解散となるが、昭和62年から平成7年まで9年は続いた。

 山村秀雄さんは、中寒二さんの前に青森県詩人連盟の会長をしておられた。平内町から合評会のときは、バスでおいでになったが、すでに高齢で杖をついてようやく歩いておられた。わたしとは何年もご一緒はしなかったが、威厳のある方で、県詩壇の重鎮であったので、わたしはあまり言葉をかけることはしなかった。同人誌に発表されたのは、過去に発表したものばかりで、もう、書けなくなっておられた。『ムッスラナ』や『何を急ぐ』という詩集は読んで唸った。


   アンリ・ルソーの「眠れるボヘミアン」(画集より)

アルカイズムのライオンが
死相の男のにおいをかいで
何と思ってか
しっぽを天にふり上げた
……

 さすが、山村さんの詩はイメージが大きく描かれる。想像の世界に題材は広く、言葉ひとつに知識の幅を感じさせた。


 平澤賢幸さんは、長く詩人連盟の事務局をしておられ、世話人として、連盟に尽くされた。東奥日報の詩の選者もやられ、よく短詩を好んで書かれたが、温厚な性格がそのまま詩の言葉になる。


   道

いくら
ほそくなっても
わたしの
通る道は
きっとある
だまって
歩いて行く


 平澤さんから頼まれて、うちの古本屋で『海峡』という連盟の会報を印刷していた。その校正も終わり、題字だけ持ってくると、すぐに印刷にかかれるところ、ぎりぎり夕方に、最終校正を持ってきて、平澤さんは忘れてきた題字は明日の朝、店に持ってくると言った。その夜は文化振興会議の寄り合いがあるとかで、そそくさと宴会場へと急いだ。忙しい人だと思った。
 その夜のことを別の仲間たちから聴いた。平澤さんは、いつになく饒舌で、普段はあまり進まない酒を調子よく呑んでおられたと。
 翌朝から、わたしは昼過ぎまで平澤さんが来ないので、印刷機を止めたまま、苛々して待っていた。時間には遅れたことのない平澤さんが来ない。そうしたら、詩人仲間から電話で、明け方、平澤さんが急死したことを聞かされた。わたしは、すでにこの世の人ではない詩人をいつまでも待っていたのだ。本人からは、心筋梗塞の発作で前に倒れたときの話を聴いていた。
 朝には紅顔夕べには白骨。みんな何故急ぐのか。悲しむ暇もないほど、次々に死んでゆく。