店から歩いてすぐの中心商店街で、春祭りのパレードが行われていた。姉たちがまだいるので、連休の子供の日は、一緒にその祭り見物となる。ただ、わたしは仕事があるので、
姉二人と県の観光物産館のアスパム前で待ち合わせた。人は出ているが、毎年、お祭りがあっても見に出たことがない。初めて、どんなことが行われているのか見た。道路は車を停めて、沿道には市民が座っている。青森駅前通りの新町商店街で、アスパムから来たベリーダンスというのだろうか、中東の衣裳を着た、どう見てもおばさん軍団が踊りを披露していた。それとよさこいソーランのチームが何十組も出ていて、沿道を沸かせていたし、後ろからはねぶたが一台ゆらりとやってくる。
 アスパムでは中と外でいろんな県内のB級グルメの屋台などが出て、姉たちは昼時で、鵜の目鷹の目。ベビーホタテの唐揚げに南部のホルモン鍋、中ではご当地の丼祭りで、田子のにんにく牛丼や八戸センベエ汁などを食す。ばあさんの土産と、今夜のおかずもと、十和田バラ焼きや魚のフライなどを買った。
 郊外の観光地に行けない人たちは、こうした地元の祭りで十分満足できる。

 姉たちと、ケーキ屋の二階のサロンで、コーヒーとケーキを食べてまたバカ話で笑い合う。三人寄ればかしましいが、姦しいという漢字に男の字がひとつ入る。上品なサロンなので、静かにお客は雰囲気を楽しんでいるところに、われわれだけが煩い。

 春祭りというのは、最近になって復活してきたが、昔は大きな街ではどこでもやっていた。わたしが小さなときには、ゴールデンウイークという言葉はあったが、五月の連休に入ると、春を喜び合うためのお祭りをやった。それはパレードであった。八戸市でも見たことがある。
 雪国の春は特別だ。いままで雪に鎖されていた半年から、一挙に空は明るくなり温かくなり、人々が外に出てくる時期で、それが春そのものを祝うかのようなお祭りになる。別にいわれはない。神事や伝統とは関係がなく、市民のお祭りなのだ。
 思い出してみると、昔も沿道の歩道や縁石に茣蓙を敷いたりして、大勢の市民が見物に陣取っていた。座るところがないほどだった。打ち上げ花火が鳴る。それがパレードの先頭が出発したという合図なのだ。遠くから音楽が聞こえてくるが、人々はがらんと通行止めにした広い国道の、パレードの来る方角を覗きこんでいるが、一向に来る様子がない。そうして30分でも来るのを待つ時間も楽しいものであった。
 このときとばかり、セスナが上空を飛んで、マイクでどこどこの商店の大売り出しだと、叫んでいる。どこから声がするのかと見上げたら飛行機から聞こえる。そのうち、売り出しのビラが撒かれる。子供らは、その何千枚と撒かれたビラがひらひらと舞ってくるのを必死で集めていた。いまなら、ゴミを街中に空から撒くというのは考えられない。
 パレードの先頭が見えてくる。最初はいつもパトカーだった。その後ろにはオープンカーに乗ったミス桜かりんごか、綺麗なドレスに髪にテアラを付けて、優雅な笑顔で手を振る。その後ろから、市長や商工会議所の役員たちが祭りのタスキをかけて、歩いてくる。
 着物を着たおばさんたちが手踊りを披露する。音楽を流す車から、小学校の鼓笛隊もあり、高校のブラスバンドに、自衛隊や警察の楽隊と、その合間にバトンガールと、いまならゆるキャラの衣裳をつけた化け人たちが、沿道に愛嬌を振りまく。
 パレードの本体は花電車ならぬ花ではないが、飾りつけをしたトラックや営業車だ。側面には看板で、その店のPRをし、風船や造花で華やかに飾られた車が時速10キロくらいでゆっくりと走る。車の荷台には仮装をした商店の人たちが笑いをとっている。

 うちの親父の菓子屋でも毎年、車の山車を出した。その写真がアルバムにあるが、側面には子供の日にはケーキと描かれ、鯉のぼりが上に靡き、何故か、幼稚園の妹と小学校一年のわたしが菓子屋の白衣を着せられ、頭には紙で作った兜をかぶせられている。白衣がだぶだぶなのが可愛いのか、みんな笑っている。まるで見世物であった。親父は自分の子供を店の宣伝のために使い、市民から笑われる。恥ずかしい気持ちでいっぱいで、車に乗っていたのは覚えている。
 ねぶた祭りとは違うのは、それは県外の観光客に見せるための祭りではなく、市民の市民による市民のためのお祭りであった。いまなら、とても田舎くさくて、とても見てはいられないだろうが、娯楽の少ない、テレビもまだ普及していなかった時代のお祭りは、それだけでメーンイベントではあった。何かあればパレードをした。いまのように車も多くなかったときだから、交通規制という考え方もなかったのかもしれない。信号もあまりなかった。いまは、国道を封鎖するというのは、ねぶた祭りのときぐらいだ。しかも、6日間の何時間かの規制で、迂回路も作って警察が交通整理にあたる。これほど車が多くなれば、道路の交通規制は難しくなる。春祭りでは、国道までは使わず、駅前商店街の一部使用に留めた。

 うとう神社の大祭では大名行列もあった。最近はやっていないのではないか。馬も出して、侍の格好をした商店街の社長たちが各町内の旗を先頭に練り歩く。ばあさんに訊いたら、「ドッキノメッカイショ」とかいう掛け声で歩いたものだという。神社で何故奴が出たり、裃姿の武士の格好なのか。うちの親父も草履にちょん髷の鬘をつけて、玩具の刀を差した写真が残っている。

 この前のメーデーもパレードというより行進なのだが、どうも年々レクリェーション化し、花見弁当を用意して、桜の名所の合浦公園での解散で、弁当をみんなで食べるためのものになった。それも、だんだんと参加者が減り、メーデーとは何かと若い人は知らないようだ。労働運動も下火になってきた。まして、この青森県の連合は、自民党を押しているのだ。東北電力の組合が強いので、原発反対は困るのだ。

 春の喜びは、雪国の人でないと判らない。ようやく空が青く、天気がよく、お天道様の顔を拝める。寺山修司も「われに五月を」と詩集を出した。青森で一番いい季節が五月なのだが、今年はどうしたのか。いまだ桜は蕾でようやく咲いたところもある。まだ寒く、毎日冷たい雨ばかり。観光地は叩かれて、これでは東北は泣くにも泣けない。