旅行が大好きなのだが、そんなに出られないのが残念だ。金もないが、暇もない。親の介護に古本屋の手伝いと、まだ無罪放免されていないのだ。年金は少しもらっているが、それはすべて旅行に使わせてもらう。それで年に五回はあちこちに行ける。旅行だけが楽しみになったのは、老人たちと同じで、老人クラブであちこちの温泉一泊旅行に行くのと変わらない。モノに対する消費意欲がなくなる。着るもの、食べたいもの、欲しいものがなくなる。年とると、孫に小遣いをやるぐらいで、楽しみといったら、年に何度かの物見遊山ということになる。それしかない。
 中には、ギャンブルやゴルフといった金のかかることをしている人もいるし、趣味で収集癖があれば、金はいくらあっても足りない。年とってからも、金とモノに執着している人はわたしには可哀想に思える。慰めるものがそれよりないのだろう。ペットもそうだ。子供のように着せたり連れ回して、それも結構金がかかる。
 それに比べたら、旅行なんか、豪遊でなければ安いものだ。モノとして残るのではなく、思い出として残る。冥途の土産、この世の見納めだ。

 わたしが旅が好きになったのは、赤ん坊のときからだ。祖父は、いつもわたしの子守をしていた。孫の中で、一番わたしを可愛がっていた。両親は共稼ぎで店をやっていたので、子供らは誰かのメゴコ(愛子)で、曽祖父には妹、姉は祖母というふうに、特別に可愛がられる。
 その祖父は、わたしにせがまれて、毎日、青森駅まで自宅から歩いて、汽車に乗り、次の駅の浦町駅で降りて、また家まで帰ってくるといった小さな旅を毎日していた。それはわたしがナン語で汽車とせがむからだという。ポッポであったか。それと、駅のホームにある水飲み場の水を飲みたがると、後に祖父から聞いた話だ。
 柳町という街の中心部に店と自宅があったが、そこから1歳を過ぎたわたしをおんぶして、駅前商店街の新町通りを歩く。駅まではゆっくり歩いて15分くらいか。列車はまだSLで、長いプラットホームにはきっと担ぎやさんたちが大きな荷を背負い、青函連絡船のほうに歩いていただろう。バスもあったが、市民の足は馬車や国鉄の汽車であった。いまのように南のほうを遠回りしていないで、国道4号線に沿って車と並行して蒸気機関車が走っていた。浦町駅は、青森駅から一駅。ほんの10分くらいの旅であったろうか。料金も10円。その浦町駅の跡は、いまは平和公園になっている。線路跡も並木道の公園になっていて、地図を見れば、線路の跡だと判る。市街地が広がると、東北本線も南方移転した。二度目の移転だ。八戸はそれをしないで、高架にした。青森ではそういう発想が出なかったのだろう。操作場が広い敷地であったのが、市の発展を妨げていた。どうしても国鉄の要所であり、本州の北の外れで、操作場は必要であった。
 浦町駅は、線路の南方移転に伴い、わたしが高校生のときに廃駅となった。通学路にあったので、いつも、線路の取り払われた、誰もいない駅舎に入って、佇んでいた。改札口もホームも自由に出入りできるのが、何か遊園地のようで嬉しかった。それはまもなく取り壊されたが、寺山修司の何かの本に、その駅の壁に、落書きがされていて、確か「駅から発つのは旅とは言わない」であったか、そういう落書きを発見したと書かれていたが、わたしが高校生のときにはそれは見つけられなかった。彼の特有の創作に騙されたようだ。
 その駅のホームの水飲み場もあった。デザイン的にも面白く、現代よりも昔の造りはしゃれでいた。ローマの遺跡にでもあるような湾曲した台座。赤ん坊だから、おんぶされたまま、噴水のように出ている水に口をつけさせている写真があった。それは親父も一緒に行ったときのスナップか。まだ頭に毛が生えていないわたしは、親父の友人たちに、アイゼンハワーのようだとか、トッキュウ(徳田球一)のようだと誉められたというが、単に禿げであったということか。髪はその後に伸びてきたが、頭の毛がぱやぱやなので、いつも手ぬぐいを帽子代わりに頭に巻いていた写真が多い。
 
 浦町駅から、ずっと北上して、橋本小学校の手前から国道沿いにまた柳町まで帰ってくるのも、歩いて20分以上はかかったろう。ちょっとした散歩ではあったが、よく飽きもせず、毎日、わたしを連れて行ったものだと、みんなが言う。
 わたしが幼稚園に入ると、祖父は東京の伯母や明石の伯母の家に夏休みに一緒に連れてゆく。寝小便を直すために、親がよその家にゆけば直るのではないかと、そう思ってのことだ。ひと月の長い旅行中、失敗したこともなく、寝小便は直ったかに思えたが、家に帰るとまたしていた。小学校の高学年までずっと直らなかった。
 明石の親戚の家では、夕食後にみんなでスイカを食べていたが、わたしは晩飯の後は寝るまで水分を摂ったらいかんと親に言われていて、それを守った。親戚の人たちは、「感心やね」と、誉めていたのは覚えている。
 青森から、鈍行で大阪まで行くのに二日かかった。各駅停車の二等席は、座席で、四人掛けの背中の痛い座席に一晩座ったまま寝てゆくのだ。それでも、嬉しくて、駅の名前をずっと読んでゆくと、同席のおじさんが、「みんな読めるんだね」と、誉めていたが、幼稚園ならひらがなぐらい当然だろう。神戸、大阪、京都、奈良と祖父と、七戸の祖父の親戚の高校生の娘と三人で旅した。
 明石の帰りは東京に滞在した。昭和32年の東京は、ALWAYS三丁目の世界で、東京タワーが半分よりできていなかった不思議な光景がいまも記憶にはある。

 いまのように、新幹線であっという間に着く旅ではなく、青森から東京まで17時間の旅だ。汽車が好きだから、乗っているだけで嬉しい。線路のガタゴトも、車内の話し声もわたしには子守唄であった。
 旅行好きの祖父が、わたしを旅行好きにさせた。祖父の年齢に近くなり、東京の孫に逢いに行こうかと、また切符の手配をしてみる。旅は、安く速く身近にはなった。