角巻で歩く人を青森のどんな田舎でも見かけなくなった。うちの若い二人にかくまきのことを聞いたら、きょとんとして、それって何? と、知らなかった。わたしの若いときは、まだ見かけた。東北と北海道の北国で寒いところだけの防寒着だが、四角い毛織物に房のついたものを体に巻いただけの単純なものだ。わたしには毛布のように見えた。ただ、夜具の毛布を外を歩くときに寒いから巻いていたのかと。それは純毛であったらしい。化繊など昔はあまりなかったのだろう。みんな、いいものを大事に着ていた。
 芥川賞を得た、八戸の三浦哲郎の小説『忍ぶ川』は映画もよかった。主演の栗原小巻がやはりかくまきを巻いていた。

 かくまきについて、ばあさんに訊いてみた。嫁に行くときも持たせてくれたというが、父親がウサギを殺して、皮をなめして、その毛皮をかくまきの縁に縫い付けてくれたというのを、ばあさんは新婚で満州に行ったときに、身につけてゆく。それでハルビンの街なども歩いたと言う。
 若い女性は赤い色のかくまきで、年とともに色が地味にはなる。薄い紫もあり、こげ茶色から黒と、その色もそれぞれの好みのファッションであった。

 奥津軽の金木では、真冬になれば、地吹雪ツアーを行い、観光客の女性たちに、そのかくまきを着けさせて、わざわざ地吹雪の雪野原を歩かせる。地元の人たちは、わざわざ寒い中にと思うだろうが、雪も珍しい南から来た人たちには、そういう光景も珍しい。

 ばあさんにさらに訊いた。戦前はどんな格好を冬にしていたのかと。子供らは綿入れのちゃんちゃんこみたいなものを上に着て学校に通っていた。ゴム長はあったが、藁で編んだ雪靴もばあさんたちが編んで、それを足袋を穿いたまま、はいたという。温かかったというが、網目から雪が入らなかったようだ。底は畳のように堅くしっかりと編まれていたから、冷たくはなかったらしい。
 セーターも手袋も自分たちで編んだものだという。編み物はみんなができた。その毛糸も純毛であったので、洗って縮まることもなく、穴はあいたが、何年でも着ていたようだ。
 下にはももひきとらくだのシャツで、それはわたしも子供のときに着ていたから、温かいのを知っている。さらに毛糸で編んだももひきも二重にはいていたので、一日中、氷点下の雪の中を転がって遊んでいても寒くはなかった。
 おかしなことに、昔は、洟を垂れた子供を見たら、元気で丈夫だと誉められたものだと、ばあさんは言う。いまはそんな子供を見たら、すぐに親は病院に連れてゆく。

 おどはどうしていたのか。おどとおが。あるいはとっちゃとかっちゃ。明治生まれの祖父はお洒落で、インバネスをつけて歩いていた。金持ちでなければインバネスというマントなど着ることもなかったろう。わたしが高校生のときまで家にはそれがあった。一度、高校生のときに、太宰治の真似をして、インバネスを着て、街に出たことがある。みんなちらちらと見ていた。
 田舎のおどたちは、そんな洒落たものではなく、やはり綿入れを着て、頭はタオルで巻いて、帽子などというものはかぶらなかった。いまでも田舎のおどたちはタオルを巻いて歩いている。タオルは顔の側面と耳、頭は保護されるが顔は出ているので、吹雪となるともろに顔に雪が当って冷たかったろう。
 長靴はあったが、氷の上でも滑らないように、ゴム長に縄を巻いて歩いていた。藁でできた縄で靴を縛ると、そのまま滑り止めになる。いまはそんな縄をつけて歩いている姿はさすがに見かけないが、わたしの若いときは、市内の商店街でもたまに見かけた。すると、その方がどちらからおいでなのかが、判りやすかった。

 普段着はそれでもいいが、おども、きちんとしたところに出るときはオーバーを着てゆく。それも純毛のどっしりと重いものだ。いまでも、わたしはその重いというものではなく、着たら肩が凝るようなどっしりとしたオーバーを親父の形見で持っている。それは、オーバーな表現ではなく、本当に重いのだ。
 それに比べたら、いまの防寒着の軽く薄いこと。昨年末に息子から買ってもらったユニクロの薄手のキルティングにしても、ヒートテックの下着にしても薄くて温かい。

 余談だが、わたしもどうしたら寒さを防げるかと、一人で氷点下の倉庫の中に一日いて、古書目録の本を揃えていたりしたとき、防寒具でもどうしても寒くてたまらないので、さらに梱包に使うエアーキャップを体に巻いたときがある。プチプチというやつだ。あれは温かい。ただ、その格好があまりにもバカげているので、息子は笑い転げて、さっそく写真を撮っていた。いま、ここでお見せできないのが残念だ。

 なんだかんだ言っても、昔のほうの暮らしは寒かった。家そのものが寒い。窓も二重のアルミサッシのペアガラスなどではなく、隙間風が入り、窓際のサンにはいつも外から吹き付けてくる雪がかすかに積っていた。部屋の中でも息は白く見えたし、我が家ではガスストーブであったが、頭が痛くなるのと、眠くなるので、夜更けは消していた。寒くても我慢して受験勉強をしていた。足元から腰までは寝袋に入り、上は防寒コートに襟巻き、毛糸の帽子まで部屋でかぶり、鉛筆が持ちやすいように指先を切った毛糸の手袋までしていた。足熱頭寒で、そのほうが思考力が増す。
 さらに子供のときの家はコークスのストーブで、寝るときは消すので、夜中と朝方は寒かった。家も断熱材がどうのというものではなかったので、その造り自体が寒かった。窓ガラスには朝起きると一面に氷の花が咲いていた。自然のなせる不思議な芸術で、どうすれば、そういうふうに花模様に描けるのかと、子供ながらに驚いていた。

 小島一郎の写真は、モノクロの津軽の風物誌をいまに伝えているが、そういう古い写真の中にしか、かくまきはもう見つけられない。雪国のおどもおがも、いまではユニクロを着てやってくる。