童顔でいい思いもするが、損もする。わたしも童顔で息子もだ。息子は古本屋の社長なのだが、そうは見えないので、年寄りのお客たちに使われている人と思われ、時にはすっかりとなめられている。それで自分は童顔で損ばかりしているという。そんなら、着ている服をなんとかしろ。テリー伊藤のような派手な原色で芸能人のような格好はやめたら? 好みだろうが、わたしならとても勇気のいる柄もののアウターを着ている。髪型も長めで、若者だから、それでいいのだが。

 村上春樹も童顔だ。若いころから顔が変わらないというのは男も女もいいようで不気味だ。

 わたしは若いときから、顔で損をしてきた。甘い顔をしているから、ぼっちゃんでもいいのだが、タバコを吸っていると、いろんな人から、タバコを吸うんだと、意外な顔をされたり、酒も呑めないような、女とも遊ばないような、真面目で品行方正な人間に思われたりしていた。それで、若いときは、いろんな女たちと布団を共にしたが、何もできなくて朝まで悶々としていた。人畜無害というレッテルを貼られたようなもので、女たちは安心していた。その期待にそのまま応えるよりなかった。あるときは、女二人と四国旅行して、その間にわざと寝たが、右と左に迫ったら、蹴飛ばされて、何事もないまま、男も立たずに旅行から戻った。そのときのことを職場でパートのおばさんたちに二人して笑いながら言うので、パートさんは、「そんなふうには見えへんけど、やはり、男やったんかな」と、意外な顔をして笑うのだ。すっかりと女たちからなめられていた。男として思われてもいなかったことはショックだった。
 自分の顔の頬に傷でもつけようかと思った。サングラスでもかけたほうがいいのかと、それから、少し色の入ったメガネをかけるようにした。

 四十過ぎたら男の顔に責任を持てとは、よく言う言葉だが、年齢とそれなりに苦労もして、中年のしぶみも出てこないと、なんとなくアホ面に見えるのだろう。いつまでも若く見られることがいいのではない。その点でも、わたしは損だった。
 そのくせ、髪を黒く染めて、アイパーをかけたりしているし、着る服も若向きではないが、地味なものは避けている。年相応ではないかもしれない。どこに行っても、若くは見られる。
 この前も、息子と二人で本の仕入に女医さんの家に行ったら、その高齢の女医さんから、息子が、「どこの高校かね」と、訊かれて、自分が高校生に見られたと憤慨し、「子供が二人います」と、憮然と答えた。すると、女医さんは、わたしのほうを振り向いて、「ええ? 孫さんが二人もいるんだ」と、驚きの声をあげたから、「五人です」と、わたしも訂正した。きっと、わたしも四十代に見られたのだろう。嬉しい。それで、女医さんは、わたしの腕を見せてくれと、手で触って、筋肉だと、張りのある若い腕を誉めていた。シワがないのは、太っているからだ。シワも贅肉でピンと張っているからだ。痩せたら、萎んで年寄りになるのだ。

 また、店でこんなことがあった。たまに来る常連客が、いつもはあまり話もしないのだが、本を買うときに、
「あんたたち、兄弟でこの店をやっているのか」と、訊いた。嬉しい。兄貴に見られた。面白くないのは息子だ。こんな老けた兄がいてたまるか。
 そのことで、思いあたることがあった。わたしが寺の門前のフリマで古本を売っていたときに、小学校の同級生の女性が来て、懐かしいので立ち話をした。子供のときと全然変わらない。傍によく似た若い女性がいたので、「妹さんか」と、彼女に訊いたら、「嬉しい。うちの娘よ」と、彼女は若く見られて喜ぶこと。その娘さんは、うちの息子と同じで憮然としていた。
 女性は年下に見られたい。男は年よりは上に見られたいと思うのは、四十くらいまでであろうか。五十を過ぎたら、逆に若く見られたら喜ぶ。若作りもするし、髪なんかも植毛したり、着るものも急に派手で若返ったりと、いろんな苦労が入る。
 わたしも、隠居というと、「まだ、早いでしょう」と、世間では定年退職なのに、そうは見てくれないのだ。それで、最近は、髪も染めないで、白髪にしておくし、旅行から戻ったままに、無精ひげもそのまま生やしていた。どうだ、これで年相応だろう。髪も手入れをするわけではなく、ボサボサで整髪料などつけたことがない。使っているつけるものといったら、頭のてっぺんに集中してスプレーする薬用養毛トニックと、手に塗るハンドクリームをそのまま顔にもつける。それぐらいか。今年はワイルドで行こうと、息子もそのほうがいいよと言うので、何も構わないで、起きたままにする。人間、ナチュラルが一番いい。ワイルドだろうと、言うが、店に顔を出せないようでも困る。客商売だから、見苦しいのでは、客に不快感を与えるだけだ。裏方といっても、事務室から店に出たり入ったりするし、たまにお客からの要望で、本の話もしなければならない。清潔は清潔で、ワイルドと汚いのは違う。おれは、ノーメイクなんだと、そう言えば、メイクする古本屋の親父もいるのか?となる。想像しただけでも気色悪い。

 だんだんと、年と共にどうでもよくなる。女を意識する年齢が過ぎたら、格好なんかどうでもいい。若く見られようが老けて見られようが、それもどうでもいい。着るものでお洒落をすることもなく、わたしの同年代の男たちは決めているが、どうも昔からファッションは無頓着であった。着るものに金をかけるなら、本を買ったほうがいいというもので、本代は惜しまなかったが、洋服なんかは息子たちのお上がりでよかった。息子のいらない服を着ていたので、また余計、若く見られるのだ。

 最近は、どこに行っても、自分が一番年上だなと、周囲を眺めている。旅行に行って、日帰りツアーに参加したときも、電車の車内で、見渡して、席を譲る年でもないなと、安心して満員電車に座っていたりする。ペンクラブに新しく三人の方が入った。男女共に年輩のような感じなのだが、年を訊いて驚いた。年下であった。改めて、自分の顔をトイレで鏡に映して眺めてみる。どうも、この顔には責任が持てないよな。苦労が顔に出ていない。苦労を苦労と思った持っていないからだ。この先、老いてますます甘くなるか。