よく言われることで、書きたくもないことだが、どの商売もいまは長く続けられるところが勝つ。まるで自然淘汰のように、競争から脱落して、生き残るものが勝つというものでもない。最後の一店になっても、衰退する理由があるから、残されても地獄のような苦しみであることが多い。
 わたしが菓子屋をしていたとき、その前は全盛期で、青森市内だけで百店に近い洋菓子を扱う店があった。秋田と並んで全国でもケーキを食べる一人当たりの量は、一位を争うものであった。東京や横浜ではない。田舎の青森が上位というのは、青森の人がハイカラを好むからで、食に関してはさほど保守的ではないということか。以前の統計では、ウイスキーの一人当たりの消費量も全国トップであったときがある。それと、明治維新の後に、あちこちに洋食屋が登場する。市民だけでなく、北海道まで行き来する旅人も多かったので、そうした需要があってもおかしくはなかった。
 だけど、洋菓子店はどんどんと減る。うちの店が倒産したときに、ライバルの菓子屋の支店長が麻雀仲間であったので、わたしのところに来て、いまなら個人情報の流出と騒ぐだろうが、クリスマスケーキの予約名簿をもらいにきた。うちでは必要がないもので、そっくりと差し上げた。ところが、クリスマスが終わってから、彼がお礼にうちに来て、首を傾げて言うのだ。「前年より売上が悪かったんだ。君んとこがどっとなくなったから、うちに流れてきてもよさそうだが」
 そうは問屋が卸さない。その頃から、手作りケーキのブームが起こり、スーパーでは半製品のスポンジからケーキ作りの材料を特設場で大々的に売るようになる。簡単にケーキが作れるレンジも普及し、作ったほうが安いし、作る楽しみもあると、それからはクリスマスケーキを店頭で山積みして売る店はなくなった。すべて予約限定販売に切り替えて、ロスが出ないようにしたりしていた。
 アメリカの西海岸の150万の人口の市にはケーキ屋が一軒よりないという。そういうところに店を出せば売れるだろうなと思うのは幻想だ。店がないのはそれなりに理由がある。売れないからだ。どこの家庭でもケーキは家で作るものだ。日本でご飯がどこの家でも毎日炊くから、ご飯専門店を出せば売れるのではないかという発想が間違いであるのと似ている。

 古本もそうだ。八戸など、人口は23万人あって、青森県内第二の都市で、街は昔からの二万石の小藩だが、城下町で由緒ある寺や史跡もあり、大学もどちらかというと理工系だが、いくつかある。だけど、工業と水産の街で、工場は青森市にはあまりないが、大きなのがかなり建っている。そういう市に昔から古本屋が少ない。以前は、わたしどもの仲間の湊文庫さんの他に三店ほどよりなかった。それもみんな潰れた。湊さんが亡くなり、一時、古本屋の空白地帯になっていたところに、坐来さんが一昨年より店を出した。それで空白はなくなった。
 わたしも18年前に一店しかない八戸市だから売れるのではないかと、14坪の支店を大通りに面したところに出したことがある。そこは2年も続かないで閉店してしまい、かなりの損を出した。古本屋が育たない土地柄というものがある。ならばそこには本読みはいないのかというと、いるのだ。仲間の古本屋さんは、八戸のほうの電話帳にも広告を毎年載せて、南部地方から随分と本の処分で電話が来るという。二時間半車で走って、何もなければ一日がそれでフイになる。それでも、出たときの蔵書はすごいものがあるという。外れが多くても当りがすごいと嬉しい。青森市は江戸末期からの新しい町で、空襲でぺろりと焼けて、古いものがない街だが、八戸とその周辺がありそうだ。
 だからといって、いい本が出て買えても、売れないと商売にはならない。そうしてみんな苦戦はしている。

 青森は恐らく全国的に見ても読書は最下位のほうだ。そういう街で古本屋をやるのもしんどい。だから、通販をしないといけないし、ネットもやらないと喰えない。店売りだけではとても借金も返せない。そのためには、日々、コツコツとデータを投入する。そのうちいいこともあるさと、いまは先を信じて、とにかく潰れないように息長く商売をしていけたらと思う。息子も判っているが、もう野心は捨てて、いまあるところで、気長にやってゆこうと話し合っている。大きいことは考えない。細々とながらも長くやってゆくためには、いらぬ設備投資などしないことだ。本はとにかく買え。買って倉庫を埋めて、じっと機を待つ。焦ることはない。
 一昨年、市内の中心部に古本屋の支店を出して、そこも一年半で撤退した。もう販路は広げないとあれほど誓ったのに、また色気を出した。それで少し火傷した。肝に銘じるというのは、すぐに忘れる。失敗したときに、思い出す。欲が絡むと人間目が見えなくなる。恋愛では目がハートになり、金儲けでは目に$が浮かぶ、マンガの世界だ。

 商売だけでなく、仕事すべてが忍耐と持続で、長く勤めた人が安泰の老後を迎えられる。バタバタと転職を繰り返して、夢ばかり追うと、いつも振り出しで、見ていたら惨めな人生だ。わたしも飽き易い人間だが、ベースの仕事では趣味と合致するのでいまのところ続いている。再来年は30周年になる。人生で一番長く続いた仕事だ。天職というのはこういう仕事を言うのだろうか。
 横を見ない。よその庭はよく見え、柿は美味しく見える。それで多角経営もしたが、悉く失敗して、借金だけを残した。東京の息子たちも、いまの仕事だけをしていたらよかったのに、欲を出していま流行のネイルサロンを渋谷のパルコの隣に出して大損した。わたしも印刷所やギャラリーをやって、その借金を返すに五年はかかった。いまは前だけ見て、余計なことは考えないことだ。

 親父も人に頼まれると嫌とはいえぬ性格で、随分といろんな仕事を掛け持った。わたしも損保の代理店の資格を持たされ、民放のFM局が認可されるときに名乗りを上げ、化粧品会社をやろうと、企画書を親父に見せられたり、テイクアウトの寿司屋から50年前には泡風呂の機械の代理店になって売ったりした。そういうものはすべて残らなかった。餅は餅屋で、本業だけになったが、それも39年目にして終る。足を引っ張ったのは、すべて余計なことなのだ。
 いま、コツコツと支店も出さないで、地域に愛される菓子屋の老舗はある。百年以上続いていると、そういう店が地元の新聞に一面特集で載っている。そういう店は、無理をしていない。手を伸ばさない。代々、その場で親から子、子から孫へと受け継がれてゆく伝統を守る。変わらないこともこの時代では貴重なものだろう。