60歳を過ぎたら、もう文学の新人賞では年齢制限に引っかかると思っていた。これから作家として書くには賞味期限がない。ところが75歳で堂々ともらったし、詩の賞でも前期高齢者がいただく。それは高齢者で趣味で書かれている方々には朗報であった。まだ自分でもゆけるかと。
 仲間で地方の新聞でも結構知られた文学賞の選考から洩れて、名前も出てこなかったのでがっかりしていた人がいた。自信作なので、その落ち込みも大きい。慰めるに、わたしがどれほどいままで落ちたか言ってやる。文学界、群像、新潮、ぼっちゃん、ポプラ社、地上、織田作之助、ゆきのまち幻想文学、東奥文学賞、さきがけ文学賞、北日本文学賞、すばる、太宰治賞、コスモス文学、オール讀物、小説現代、古本大賞と、とにかくどこでも数撃ちゃ当るかと、手当たり次第に若いときから出して、箸にも棒にもかからなかった。いまはもう出していないが、100人くらいの作品しか集まらないから、これはひょっとして宝くじを買うより確率は高いと思って出しても、それは自信過剰というものだ。全国にどれだけの小説家予備軍がいると思うのだ。以前は200万人とも言われていた。いまは、誰でも原稿用紙ではなく、パソコンに向えば作家になれる。ネットの小説のサイトがいろいろとあって、発表ができるからだ。パソコンは漢字を知らなくても、勝手に変換して出してくれて、間違った「幹事」を使えば、「漢字」と、すぐに賢いコンピュータ君が訂正までしてくれる。校正はいるが、誤字脱字はエディターソフトが直してくれるし、原稿の書き方も、指導してくれるソフトもあり、毎日、ブログや書き込みをしている人ばかりで、昔よりは書くというより打つ人は増えた。日記なんか、書く人はそんなに多くはなかったろう。手紙も面倒くさいと書かない若い人たちがメールを一日何回も送っている。昔の人はせいぜい一週間にハガキ一枚でも書いたらいいほうだったろう。
 そういう文明の利器のおかげで、俄か小説家がいまでは五万ではきかない。下は小学生から上は百歳で手が震えて棺桶に足を突っ込んでいるお年寄りまで、パソコン、パソコンで、いとも簡単に、五百枚の長編を書きましたと言ってくれる。そういう若い人たちからお年寄りまで、わたしも小説家になりたいと、せっせと書いた作品をあちこちに出すので、敵が多いというものじゃない。うじゃうじゃといる。
 だけど、年々の傾向として、応募数は減少しているとか。それは賞が増えたこともある。地方公共団体主催のものも随分と増えた。町おこしで使われる作品募集。作家の名前を冠した賞から、企業が募集するもの、賞金の額も魅力で、重複して応募している人もいるから、生易しい戦いではない。各地に小説の塾もあり、まるで登竜門の予備校だ。どうすれば新人賞が獲れるか。その傾向と対策と、まるでそれは受験なのだ。
 自分の書いた小説はどこに出せばいいのか。カラーというものもあるので、過去の受賞作をずらりと読み返し、選考委員の作家さんの顔と傾向も知らなければならない。全然お門違いのジャンルに出しても、門前払いだ。
 よく言うのが最初の書き出し。作家先生が全部の応募作品に目を通すことはあまりない。千編を越えると、大抵は、出版社や新聞社の編集員で粗選をする。読むに耐えない、原稿の書き方も知らない、最初から誤字のあるものは、一枚目でそのまま、はい、さようなら。
 この前、80歳で大学院を卒業し、博士号を取得した仲間がいて、その論文を見せていただいたが、大変な労作だ。しかも、その御仁のいわく、論文でも最初の一行から肝心なのだそうだ。かなり多くの分厚い論文が集まる中で、如何に導入部が大事かというのは小説だけではなかったのだ。
 その最初の書き出しに悩みすぎて書けない人もきっと多くいる。タイトルも決まらないで、とにかく無題でスタートして、そのうち決まるだろうと、走り出す人もいる。
 自費出版の「あなたの原稿をください」という怪しげな出版社は、誰にでも、「あなたの作品を本にするために検討させてください。素晴らしい隠れた才能をこのままにしていては惜しい」ようなくすぐる手紙を、同人仲間の多くに同じ文出していたのには驚いた。それで、結果は、「検討しましたが、本にはいたしますが、分担したいと存じます」と、多額の費用を請求する。それでも全国の書店に並ぶのかと、陶酔していてもいけない。どこかの本屋には並ぶだろうが、そんなに刷ってはいない。そして、すぐに返本されたものはブックオフの棚に百円均一で並ぶのだ。

 新聞社の募集する小説の賞は、地元出身の作家たちが選者になるが、いままでの受賞作を読んでも、力量もあるし、将来性を感ずる人ばかりで頼もしい。問題は選者の基準だ。まずは、絶対に暗い、希望のない内容は取り上げられない。明るい未来に向けた夢のある話でなくてはいけない。どろどろと人間の情念が渦巻くものは、新聞には連載では載せられないと、はじかれる。新聞だから仕方がないのか。文芸雑誌なら、そんなことはなく、文学性にそういう面を求めない。
 仲間とその話になって、酒を飲みながら、選ぶ基準について語ったが、落ちた人たちの負け犬の遠吠えに聞こえたらよくない。わたしも落ちた一人だから、代表して力不足でしたと頭を下げたが、先の傾向と対策を見誤っていたのだ。ただそれだけだ。嫌なら、別の賞に出せばいいのだ。いくらでもあることだし。
 写真を撮るときに、笑ってと言う。笑う顔が一番美しいわけでもない。どの写真もみんな笑って、ピースばかりしている。実につまらない。顰に倣うという諺があるが、西施のように苦痛で顔を歪めている表情が美しいとみんな真似た故事もある。芸術性からいえば、笑ってピースは写真としては価値が下がる。若いときに写真をやっていて、彼女をモデルにしたが、一度も笑えとは指示したことがない。自然のままに意識されずに盗み撮りするぐらいがよかった。泣いた顔もいいし、怒った顔もまたいい。モデルさんはいつもどこか暗い影を見せる。
 小説も誰が読むのかとなると、新聞の読者で、この暗い時代にどろどろとしたものは読みたくないだろうと、選者は当然のように考える。だけど、そうだろうか。人より幸せな家族を読んで、羨ましいとは思うが、却って反発を抱く読者も多い。悲惨な家族を読んで、自分よりも不幸な人がいると安心したり共感したりするのではないか。こんな時代だから、社会性と現代性があり、最後に少しの救いや曙光が見えたらそれでいいのではないか。絶望ばかりでもいけないが、ラストは何もアメリカ映画のようにいつもハッピーエンドでなくてもいい。読者に警告を与え、そうなりたくないものだと、問題を喚起させる結末であってもいいと思う。自虐ネタを笑うのは、みんなにありえることで、身近な出来事であるからだ。葛西善蔵の小説を読み返してみて、情けないほどの金の無心で、生活能力のなさを、いまだから判るということもある。不景気な時代にはそうした小説もまた生きる。