趣味の古本屋といっても、お客さんの側から見た古本屋ではなく、古本屋の親父が趣味でやっているような店のことだ。どんな商売にも理想はある。それで飯が喰えたら素晴らしい。だけど、自分の思うように商売はならない。現実はかなり厳しかった。
 わたしのところに古本屋を開業したいと相談に来る人もいた。そういう人が自分の蔵書リストを見せてくれると、ははん、古書マニアだなと内容ですぐに判る。脱サラで生活のために奥さんの心配をよそに古本屋をやりたいというが、趣味と商売は違う。
 全国あちこちの古本屋さんを覗いて歩くと、唸るほどいい店がいっぱいある。綺麗にしている。陳列センスもいいし、本棚も別注か、高いだろうなと思うもの。カフェを兼業していたり、紙ものをどこから仕入れたのか、店内で販売しているのも、店主の好みとセンスでなかなかいい。椅子とテーブルなどのインテリアにも凝っていて、肝心の古本の中身を見ないで、いい店だと、うっとりとしてくる。そういう店でコーヒーを飲みながら、自分も古本屋だとは明かさないで、女性店主さんと話している。店にはゴミひとつ落ちていないし、陳列している本も厳選しているのだろう。美術工芸関係の本を主体に、サブカル系のレアな本を魅せている。値段もいい。きちんとビニール袋に入れている。一冊ずつ丁寧に保護しているのを見たら、うちもそうしたいとは思う。文庫本一冊ずつパラフィンを巻いて、値段を書くスリップにも内容まで書き込んでのきめ細かいサービスをしている。うちではとてもできない。「いい店ですね」と、その贅沢な通路の幅や、ゆとりのあるスペースを眺めていた。うちなら、きっとお客のことは考えないで、通れればいいような狭さにして、如何に狭い店に大量の古本を陳列するかと考えてしまう。それでなくても毎日、溢れるくらい本が入る。
 そういう落ち着く雰囲気の店を作ってみたいとは思う。見せる本だけを並べて、どうでもいい本は置かない。店主は、さっきから、パソコンのモニターに向って、ネットを見ているようだが、ネット販売もしているのか。それにしても、データを登録したりしないのだろうか。時間が勿体ないと、じっと何もしないで、ネットばかり見ているのを、羨ましく思うのだ。あくせくと働かなくてもいいのだ。うちのように、脅迫されるように、毎日、一分でも惜しむように本のデータを打つ必要もないとは。
 だけど、一時間いて気になるのだが、その間、お客さんが一人も入ってこない。ビルだから、借りているのだろう。人は使っていなくても、家賃はかかるだろう。光熱費に資材と、人の店なのに、心配して計算したがる老婆心。

 そういういい店を見てしまうと、うちの古本屋なんか、みすぼらしいと卑下もしたくなる。本の陳列方法も素晴らしいし、学ぶべきところはたくさんある。商品アイテムもジャンルも絞り、この店は何を売る店なのかと、ちゃんと主張している。ちらりと入ってきたお客でも、すぐに帰るのは、自分の探している本がないと、すぐに判るからだ。何でも置けば売場は雑多になる。ごちゃごちゃとして、いまのうちの店がそうなのだが、何を売ろうとしているのかよく判らない。
 よく、古本屋紹介で、おたくの店の主力商品はとか、特徴みたいなことを質問される。キャッチフレーズは「なんでもあって、なにもない店」となる。ごちゃごちゃといろいろと古本だけでなくレコードやポスターや骨董品などを置いているが、とりわけてこれはと思うものは全然ないということだ。
 田舎の商売だから、セグメントすることができない。本当は、自分の好きな分野で専門化したほうが、管理もしやすいし、そういうお客だけ相手にすればいいことなのだが、それでは食えない。仕入は毎日あるが、あれはいらない、これは売れないと、より分けて仕入していたら、買えるものがなくなる。お客も入ってきても、ご要望にお答えできないほうが多く、結果的に、趣味の範囲で古本屋をしていれば、東京のような大きな人口を抱えているなら別だが、日銭で暮らしているこの商売はたちまち行き詰まってしまう。

 わたしは、古書だけで、初めは林語堂という店をやるつもりでいた。新しい本は取り扱わないと決めた。文庫本やマンガは置かないのだと。ところがひと月やったら、客は入るがすぐに踵を返す。「あれ、ここは本当の古本屋だ」と、場違いなと思ったお客はすぐにドアを閉める。それでもぐっと我慢していた。二月目になると、支払いに窮するようになる。一日五人くらいのお客を相手に何千円かの売上では家賃も払えない。仕方がないと、文庫本も並べ、マンガ本も並べた。わたしの理想はわずか二ヶ月で潰された。だけど、最初が肝心なのだ。一度来たお客は、ここには文庫本はないと知ると二度と来ない。細々とした売れ行きで泣きが入った。なんとかしなくてはと、口コミで広がる予定が、口コミであまりいい噂が広まなかった。ある人から聞いたら愕然とした。「あそこの古本屋は最初にいい本はあったが、もういまはないよ」というのだ。オープンのときに棚荒しをされると、残りはカスのような言い方をされる。本当は日々、古本は仕入でいろいろと入ってきて、店というのは生き物と同じで動いている。同じ在庫がそのままであるわけがない。
 そこで、頭にきて、ちょっと高いが新聞広告を出すことにした。五段四分の一のスペースに、文庫本とマンガを全品百円と当時としては思い切った値段で出した。そうしたら、どっとお客が入った。中には、そこに古本屋があるのも知らない新規の方もいて、「いつからありましたか」と、何度も同じ質問をされた。売上は一挙に伸びた。客数もその日を境に何倍にもなる。
 これは置かない、これは扱わないと、ゲームやアダルト雑誌も置かないで、専門書だけでやろうとした痩せ我慢は折れて、三ヶ月後には別の店になっていた。理想と現実は違うと言っても、ありきたりの古本屋になってしまい、しぶしぶの本の取扱だった。
 だけど、当時は小さい子を三人抱えて、食わせてゆかないといけない。そんな、自分の趣味の範囲だけで商売ができるか。それがいままで続いてきたうちの店のなんでもあって何もない商売にはなった。人口の少ない田舎ではやむをえない。
 
 余裕のある、定年後に退職金で古本屋をやった方などは年金もあるし、家のローンも終わり、子供も社会人でかかるものがない。自分の書斎を開放したような店を作る。それは別に売れなくてもいいのだ。見せびらかしていれば満足なのだ。値段もついていない。中にはガラスケースに入って売る気のない自分のお宝もある。それはそれでいい。生活がかかっていないからだ。最近はそういう古本屋さんも増えた。蔵書家が終局には、自分の私設の図書館を建てるか、古本屋をやりたいというのが夢だろう。生活がかかっている若い人たちは、時には形振り構わず売れるものなら何でも売らないといけないときもある。やはり夢というものは喰えないものが多いのだ。