先週の金曜日から具合が悪くなったと言ったら、インフルエンザは一週間はかかるというので、今週の木曜日までは自宅謹慎処分だ。何も悪いことをしていないのに、自発的軟禁状態に置かれる。
 日曜までは具合が悪くとも店で仕事をして、月曜日の朝に近くのクリニックに行って診断された。だから、月曜日から木曜日までの丸四日間は外に出られない。この際だから、引きこもり体験をしてみようと、まるで宇宙で長期間暮すときに地上で一年も閉所に閉じこもる訓練をするが、これも、自分の中での実験とすることにした。こんなチャンスはまたとない。その四日間の生活の記録をつけた。


2月4日月曜日
 医者にインフルエンザだから、家族とできるだけ接触しないようにということで、仕事も木曜日まで休むように言われた。ただの風邪ではなかった。昔の使い捨てカメラのコマーシャルのようにうつるんです。息子が店に車で行くので迎えに来たが、慌てて逃げる。向うも妻子に家族が多いので、移されたら大変だ。ばあさんとは普段からあまり接触はしたくないので、いままで通りに部屋に閉じこもっていればいいだけのこと。病気で仕事を休んだのは、ここ10年間でもあったか? だいたいどんなことでも仕事には出た。一度、肝機能が低下して、眩暈で立ってもいられず、事務室で寝ていたこともある。風邪も滅多にひかないが、年末に弱っていたときに、39度でも仕事はしていた。肺炎でも仕事をしていたときもある。休むことは罪悪だと考えるところが古い仕事人間なのだ。
 死んだ親父は、同情はしなかった。病気は自己責任だと、健康管理をしなかった本人を逆に責めた。仕事に差し障ると他の社員に負担をかける。そういう厳しい親父も自己責任で死んだ。
 さて、困った。一日外に出ないというのはいままでなかったことだ。たまの休みだから、外に出る。朝から出て夕方でなければ帰ってこない。四六時中店という室内で働いているので、週に一度は外で過ごしたい。それが、出てはいけないと閉鎖病棟の中に押し込められた状態だ。ゴミは隣の妹が出してくれた。マスクをして、わたしを避けるようにそそくさといなくなる。晩御飯のおかずも作っては運ぶから、わたしに家事がなくなる。布団も押入れにいちいち仕舞わなくていいのだ。万年布団でいい。
 テレビはもとより面白くないので、見ることはない。それでも新聞のテレビ番組表をつぶさに眺めて、昼間でも見たいものがないかとチェックしたがない。それならインターネット映画のギャオでも見ようと、スマホで何本も映画を見た。それに飽きると麻雀ゲームをしたりしていた。
 図書館から借りてきた本は残りが少なくなっていた。後三冊。どうしようか。不安になる。ところが、急に本の読むスピードが遅くなった。時間はいくらでもあるからだ。しかも、貪欲なまでに本を読みたいという気持ちが失せた。さあ、時間はいくらでもあるぞと、その空白に座らせられたとき、人間は如何に無力になることか。寸暇を惜しんで仕事も私生活も忙しい中でこそ本は読めたし創作もできた。こんな生活を続けていたら、きっとアパシーな人間になる。人には誰でもオブローモフになる素質を持っているのだ。


2月5日火曜日 隔離二日目
 薬のせいで、眠くはなる。昼間はうとうとと転寝しているか、本を読んでは投げ出すか、映画を見るか、ネットサーフィンをするか。他にするべきことが見つからない。それで、仕事も忘れて、何かしなければいけないことを思い出した。ペンクラブの用事があった。四月の総会のときに講演会をしていただく講師に、八戸の郷土史家のМさんにお願いするのを忘れていた。それで手紙をしたためる。講師依頼状だ。それを近くのポストに出しにゆく。あまり雪は降り積もってはいない。暖気でだいぶ解けたろう。外に出たのはそれ一度きり。
 何も食欲がない。体を動かしていないのだから、腹も減らない。薬を食後に飲むためだけに義務的に昼飯を喰う。麺類がある。もずくうどんに白石ソーメン、貰い物だが、普段はばあさん一人昼いるので作れないでそのままあったものを片付ける。具がないのでとろろ昆布とネギを入れる。
 詩集を出そうと、前に行李から出してきた若いときのノートを見てみた。日付が昭和五十年一月、大阪市住吉区粉浜東之町となっているから、23歳のときのだ。一枚のメモ用紙が飛び出した。それには詩の断章が書かれている。

 あの日 ノイローゼの蒼白く弱いぼくの
 卑屈な思考は分裂したり凝固したり
 ぼろぼろと自信と信仰は内向へと壊滅してゆく
 八月 円い炎の輪が海の上に燃えさかる
 そのなかに ぼくはぼくの幸福を絞殺した
 
 どうしようもない若いときの歌があった。読むに耐えない。
 新刊という、先に進む読書をしているので、古い本は滅多に読まなくなる。それもいけないと思いつつ、そういう在庫が切れたとき用の非常本も置いている。なぜか『徒然草』とか『暗夜行路』とか。


2月6日水曜日 隔離3日目
 朝はいつものように起きなくていいのに、長年の習慣で6時に目覚め、新聞を読み、7時半には飯支度をする。寝ていてもいいのだが、そればかりは体が自動的に起きて動く。もしも、それもなくなるくらい長い隔離であれば、きっと朝も夜も区別がつかなくなるのではないか。ひとつ忘れた。歯を磨いていなかった。習慣のひとつがどうでもよくなるように忘れるとは。
 さっそく八戸のМさんから電話が店に来た。息子からの連絡で、Мさんの自宅に電話を入れた。講演会の件、快諾されてほっとする。ペンクラブの総会の日にちをそれで会館に予約するよう、北の街社に電話する。Мさんにはマスコミに出すので、演題と略歴をファックスで流してもらうよう頼んだ。
 寝たり起きたりごろごろと。GYAOで映画「僕たちは世界を変えることができない」を見た。カンボジアに学校を建てようとする大学生たちの本当にあったボランティア活動だ。その本も読んだが、そういう燃えている若者たちがいることは嬉しい。
 部屋から出ないということがどんなことかという実験なのだが、きっと、このままぐうたらに過ごしてしまえば、馴れてしまうんじゃないのか。引きこもりも退屈だろうが、ネットとゲームとあって、無料で映画も見られ、買い物もできるから、退屈はしないだろう。
 

2月7日木曜日 隔離4日目
 怠惰になろうとすればなれるものだ。時間がいっぱいあるのに、本が読めない。すでにみんな読んでしまい、することがない。仕事という一日の大きな時間と、読書というその隙間を埋める時間が欠落しただけで、大きな穴があいた。しかも、それはテレビやゲームや眠りでは埋めることができない。人間、本当にぐうたらになる。このままでは別の病気になりそうだ。四日でもわたしには耐えられない。
 また映画をネットで見る。台湾映画の「練習曲」という、ギターを背負った大学生が台湾一周のサイクリングを卒業間近の記念にするというもの。その爽やかな映画もよかったが、何より驚いたのが、主役の青年がうちの息子にそっくりなので、本人にもメールで教えた。「ワロタ」と返事がきた。来週は仕事で息子たちは台湾に行くそうだ。
 自分の講演会がある街が何故か苫小牧で、車で途中まで連れてきてもらって降ろされた駅が倶知安駅だった。そこから特急で苫小牧まで行くのがあるというので乗った。ようやく着いたら、すでに予定の6時はだいぶ過ぎていた。そんな焦った夢も見た。白昼夢も面白い。
 元気なのに、社会から隔離されるというのは辛いものがある。血圧正常値、体温微熱。咳なし時々くしゃみ。食欲なし。ご飯にふりかけをかけて無理くり詰め込む。明日から仕事に出る。明日こそ県立図書館にも行かないと。薬が切れるより辛い。靴下もそのまま。顔も洗わず髭も伸ばしたまま。日常のリズムがすべて壊れている。うちのばあさんは、そういう生活をもう何年もここでしている。おかしくならないのか。明日はワーッと叫びながら、雪の上に飛び出そう。