東京の息子たちが帰ってくる家がない。一昨年、自宅を売ったこともある。いまは妹の旦那が持っているマンションに身を寄せている。ばあさんと二人暮らしだが、部屋は2DKみたいなもので、狭いので、息子たちが来ても寝る部屋がない。姉などが来たときは、ダイニングルームに布団を敷いて寝てもらったりする。じいさんが死んでからは、ばあさんの部屋にも布団は敷けるので、せいぜいが後二人だけ寝るスペースと布団はある。息子たち一家が泊まるところがないので、青森に帰ってくると、ホテルを予約して来るのだ。なんとなく、ふるさとに帰ってきてもホテルだから、旅行みたいなもので金もかかる。
 次男は、ぼそりと実家がないと言った。それは悪かった。いずれ、ばあさんも施設に入り、わたしもフーテンの寅さんのようにふらふらとあっちこっち行っていれば、帰るところなどないのだ。
 いまは、そういう家族も増えた。わざわざ青森に戻ってきて、空き家になった実家を処分しに来る。息子や娘たちが東京に嫁いだり就職して、定住してしまえば、年老いた父母は、それを頼りに上京する。
 青森ペンクラブの仲間も、去年また一人、東京町田の息子を頼って夫婦で引っ越した方がいる。いままでも何人もそれでペンクラブを辞められた。あるいは、無人の家を処分しないと、危なくてしようがない。いまは空き家で火事も出る。雪の重みで潰れる。それが危険家屋となって、隣近所の不安の種になっているのだ。
 わたしども古本屋は随分と、そういう家に呼ばれてゆく。本だけでなく家財道具まですべて売ったり整理して、空にしてから不動産屋に頼む。だけど、なかなかいまは売れるものではない。知る人も関東方面に息子を頼りに行ってしまったが、家はそのまま不動産屋に任せたまま、二年しても売れない。青森県内には、60万戸があるが、そのうち10万戸が空き家なのだという。これはこの先、全国的にものすごく増えて、後30年もしないうちに、全国の四割が空き家になるという予測も出ている。
 ふるさとには墓よりなくなる。毎年のお盆には戻っても、墓参りをしたらさっさと帰るか、ついでに旅行をしてゆく。親戚づきあいもしないと、そうなる。ふるさとは墓だけの町になるのだ。

 わたしの居場所も一応ないといけないので、いまは、現住所は古本屋にしてる。住所不定無職でもいいが、郵便物が届く場所で、市役所からも通知が届く場所は古本屋がいい。もう借金したので、当分はそこから出られないだろう。いま住んでいる妹のマンションも、ばあさんがいなくなれば、出ないといけない。わたしの年金ではとても入っていられない。それで、ばあさんはおまえを残して死ねないというのだ。それは困る。思い残すことなく、ご他界してもらうためにも、安心させないと。
「大丈夫だよ。橋の下で暮すことはしないから。そのために、息子が古本屋の建物を買ってくれた。そこに管理人室があって、8畳間くらいだが、テレビもソファも机もあって快適なところだ。近い将来はそこで暮すから」と、安心させないと、いつまでも死なないでずるずるといられたら、わたしが困る。
 旅に出ることばかり言うので、心配するのだ。野垂れ死にしたいというと泣く。山頭火のように、西行のようにと言っても判らない。判った、判った、ちゃんと管理人としてそこで暮すから。近くにまちなか温泉もあるし、飯も近くのコンビニで半額になったのを買って食べるから。また泣く。
 わたしもこのままだと老人の孤独死の口だろうが、そんなのはどうでもいい。畳の上と病院でだけは死にたくないというだけだ。それを言うと、ばあさんは泣くから言わない。

 旅行に出ても、やはり帰る場所はいる。フーテンの寅さんにも実家はあり、それがあるから自由気儘にあちこち行っているのだ。
 親たちが動けなくなって、施設に入ると、それでもう実家はないに等しい。家だけでなく親もいなくてはいけない。誰もいない無人の家なんか、あってもなくてもいいのだ。

 わたしの友人は、弘前に実家があるが、親が死んで、無人になると、そこは自分の家で、自分しか守れないと、リフォームすると、週に三日は青森から通って、そこで好きに暮らしている。女の隠れ家で、名付けてエルミタージュ。ロシアの美術館と同じだが、フランス語で隠れ家を意味する。もし、彼女がそこに何日かでも住まないと、すっかりと廃屋になってしまう。人の住まない家は早くダメになる。掃除をして手入れをするから長くもつ。
 彼女には、実家がなくなることが耐えられなかった。父母の思い出と自分の青春もそこにある。家が可哀想だということもある。彼女の家に遊びにゆけば、玄関には父母の写真が飾られている。いつでも、玄関の戸を開けたら、そこに両親がいるのだ。それが実家であり、ふるさとなのだ。

 そういう意味では、うちの息子たちにはすまないことをした。だけど、息子たちは個別に家を建てたりしている。もう青森には戻ってこないのかと思ったくらい、向うに骨を埋めるつもりなのだろう。孫たちはすべて女の子なので、いずれは墓をみる人もいなくなり、無縁仏さんにはなる。それでいいとは思う。これからの日本は、四割の家が廃屋になり、同じくらいの墓が無縁仏になる。帰るところなどどこにもないのだ。
 わたしの昔の実家も抵当に入り、会社のために売ったとき、親たちは賃貸マンションに越した。そのときから、わたしにも実家というものがなくなっていた。それからは転々とアパートに移り住んで、ようやく浅虫に家を買ったときにバラバラの家族がまたひとつ屋根で暮らせた。それも10年くらいのものだった。いずれ、親も年取ると、病院の近くでなければいけなくなる。バスやタクシーが使えないところには住めないのだ。幼少のときに暮らした家と本籍のある家もいまは他人の名義だし、先祖代々の土地というのはいまはありえない。桜の園のような感慨はあったにしても、いずれは手放さないといけなくなる。
 寂しさはそこにある。思い出の町がそのまま他人の町になり、それでも、いろんな苦労をしながら、スカーレット・オハラのようにふるさとに帰りたいと思うのだ。

 よく言うセリフ、実家に帰らせてもらいます、も、ないときは、どうするのだろうか。