中古ゲームなど古本屋で売るのは邪道だと、そんなものに手をつけてはいけないと、自分では頑固にそう思っていた。平成元年の暮れであった。
 その頃は、ファミコン全盛期で、うちの古本屋では、マンガ本が売場の半分を占めていて、なんでも定価の半額の古本ばかりを扱っていた。本ばかりだと、売上もなんとか喰ってゆけるかというぐらいで、小学生の息子三人を抱えて、借金もあり、苦しい生活をしていた。
 歩いてすぐのところにうちの商売敵の古本屋があり、そこはうちの何倍もの子供らが群がって繁盛していた。
「パパ、うちもゲームの中古を売ろうよ」と、息子たちが盛んに言うが、ついに敵方の店に客を取られているのに危機感もあり、やることにした。あれはクリスマスが過ぎた頃だった。まだ中古でゲームを売っているところはその店と支店しかなかったときだ。ファミコン自体が出始めのときで新しい。
 ただ、何も知らない世界なので不安であった。店頭に「ちゅうこのゲーム買います」と貼紙をしただけだった。と、さっそくその日に何人も子供らがゲームを売りにきた。いくらで買ったらいいか判らない。マンガと同じ感覚で、定価の三割で買うことにした。定価は八千円とか一万二千円とある。ええ? そんなに高いの? と驚いただけではない。レジにはあまり金が入っていないのに、半日で何万円も出る。数人の子が売りに来ただけでレジが空になった。青くなる。しかも、最初に買った子は、
「やったー、すごい」と、大喜びなのだ。まだ出たばかりの新品同様に箱説付きのファミコンなのだが、なんと、その同じカセットを次々に売りにくるではないか。次の子は不安なので、さらにその半分の買取値段を言ったら、
「あれ、ぼくの友達は三千円で買ってくれたと言っていたのに」と、文句を言うのだ。
 三人から高値で同じカセットを買ったときに、うちの息子が外から戻ってきた。
「パパ、何を買ったの。いくらで買った? ダメだよ。これってクソゲーで新品だけど、もう向こうでは百円で売っているんだからね」
 しまった。子供らにやられた。新品でも、面白くないゲームはどっと値段が下がる。道理で子供らが喜んだわけだ。
 これは怖い世界だと思った。うちは、どこのフランチャイズにも加盟せずに独自で中古の売買をしようとしていた。それにデータが全くない。売りにきても相場が判らない。一律でいえば、ドラクエの新しいのは人気で、よそに売りにゆく。よそよりも百円でも高く買って、百円でも安く売らないといけない商売だった。子供らは自転車でそうした店を値段で回っている。
 さっそく、息子たちに敵方の買取と売り値を調べるためにスパイをさせた。やるなら、わたしも勉強しないといけない。ファミマガの新刊を買って、ゲームの種類を覚え、何が人気かベストテンも覚える。買取価格表なるものを独自でノートにつけた。ファミコンと出たばかりのスーパーファミコン、ゲームボーイ、メガドライブ、PCエンジンだけはカードであったが、後はすべてカセットで、まだCDは出ていなかった。
 ゲームの本体からアダプター、コントローラーといった周辺機器も買取する。それは、壊れている場合が多いので、いちいちテストしなければならず面倒だった。
 いままでの本の買取と違うのは、出たばかりのファイファンなどは定価の八割で買取り、一割引で売るという薄利なことだ。一割より儲けがない。それでもそれを目当てに子供らが押しかける。いままで本だけであったときの何倍ものお客が入るようになった。いつも店内は客でいっぱいだった。どんどんと売りに来る。どんどんと買いに来る。
 最初だから、小さな棚に二列より在庫はなかったが、それでも飛ぶように売れた。回転率がいい。何も知らないので、箱にみんな入れて売っていたら、ごっそりと盗られた。万引きもすごかった。それで、子供らが手の届かない壁や天井にビニール袋に入れて吊り下げる陳列にし、空箱だけを置いて、中身は帳場の中に置いた。
 ゲームを取り扱う前は、売上は日に一万円ゆけばいいほうであった。何千円かの売上で、月にすれば光熱費と家賃と仕入を引けば、まだ外に働きに行ったほうがよかったくらいの上がりだ。
 それが年末からやり始めた中古ゲームで、正月明けの売上は一挙に三倍になる。それからはどんどんと売上は伸びる一方だ。
 わたしはゲームはやらなかった。客と話していても、ファミ通などで得た知識でしかない。面白さが判らない。たまに麻雀とかゴルフはやったが、熱中するまでもない。
 「たけしの挑戦状」というのは息子たちとやった。ビートたけしが考案したゲームで、街を歩いて、酒場に入り、カラオケで歌も歌ったり、チンピラと喧嘩したりするというおふざけなのだが、面白かった。シムシテイ、マザー、マリオにドンキーコング、三国志などの歴史ものと、いまのように定価は安くはなく、一個一万円近くしていたので、メーカーも儲かったろうし、知り合いのおもちゃ屋さんはドラクエ4のときは、半日で予約もあって六百万円売上たという記録も残していた。当然、それを扱う中古屋も単価が高く面白いくらい売れた。わたしなんか、破産してすっかり裸になってから僅か三年で土地を買って家を建てた。みんなあまり早いので怪しんで、隠し財産があったのではないかと訝しがったくらいだ。
 ゲームもただ平面的な音と画像のファミコンから、数十倍も能力が高まる。セガサターンとブレステーションがCDで登場した。ニンテンドウはそれに対抗して、あくまでもカセット志向で、ニンテンドウ64を出した。買取価格表はどんどんタイトルが追加されるだけでなく、ゲーム別のノートも何冊も増え、ファミコンだけでも千タイトルを超えたときに、手書きでしかも、日々値段は下がるので、毎日書き換えないといけない作業は、もう一人でする仕事ではなくなった。パソコンもまだ導入していないで、ワープロであったが、ワープロで管理するようにした。
 そのうち、いろんな中古専門店があちこちにできた。大手の電器店やホームセンターまで売場の中にそういう中古コーナーを設けて、新聞に買取チラシを入れて派手に宣伝するようになる。新刊書店もテレパニのフランチャイズ契約をして店の二階を中古ゲームコーナーにした。そして、ついに青森の街にもブックオフの支店が二つ出店してきて、ゲオやメッセ、ブックサプライといった大手の古本屋兼中古ゲーム屋がどんどんと駐車場付きの大型店で出てくると、うちの古本屋からはさっと子供らの姿が消えた。誰も売りに来ないし買いに来ない。甘い夢を見させてもらったのは七年くらいだ。それからはどっと売上が落ちたので小さな店は次々と閉店。うちもゲームから撤退し支店を閉めた。平成八年のことだ。

 思えば、万引きもすごいが、いつも下がる価格のことでピリビリしていたときより、いまのような値上がりをするかもしれない本を相手に、ゆっくりとやる商売のほうが気持ちは楽だ。マンガ本もすぐに古くなり売れなくなる。売場で動かないマンガは全部終わりだ。それが蘇生するにはさらに何十年も待たないといけない。
 しかも、子供相手で買取にトラブルも多く、盗品買取で警察に呼ばれたこともあった。息子の友人と安心していたのがいけなかった。店からゲームや音楽CD、ビデオとマンガをすべて追い出して、以後は子供どころか大人も入れない倉庫で通販だけにしたら、なんとさっぱりしたことか。なんだか為替や株をやっていてはらはらした毎日のようで、いまは稼がなくてものんびりした商売がいいと、昔ながらの古本屋のおやじに戻っている。