ずっと長い間、店はあっても通販専門の倉庫なので、お客を入れていなかった。お客といえば、電話注文の声だけとか、ハガキやファックスでの注文から、一番多いのがメール注文だ。いずれも相手の顔は見えない。見えないお客を相手にしてずっと商売をしてきた。店ではないから、いつ開けてもいいし、いつ閉めてもいい。営業時間はあってないようなものだ。そうなると、仕事も家に持ち帰り、家でもできる。受注のメールには旅先でも返信ができて、メールのやりとりはできる。いつでもどこでもだ。
 すると、接客ということがなくなる。せいぜいあっても電話の応対だけで、お客の顔の見えない不気味な商売ということになる。それはお客にとっても同じで、果たして信用がおけるのかと、顔の見えない会社やストアに対して不信感はぬぐいきれない。

 いま、まるめろ文庫の店売りだけの窓口を設けたが、今度からは、わたしがずっと朝から晩まで、その店に立つことになった。いままでいた見習いの社員は、林語堂での仕事にも慣らすために、息子と二人で本を包んで梱包したら、わたしが前の日に用意した本の山を上から順番にデータにするため打ち込む。それを若い二人でやれば、かなり早い。二人で半日で五百冊は打つだろう。それが、わたしの場合はかなり能力が落ちて、夕方から打ってようやく百冊がいいところだ。いつも古書目録発行まで間に合わない。それで、息子が考えて、勤務シフトを変えた。若いのが二人で、バタバタと打てばいい。わたしは、まるめろ文庫のほうでのんびりとお茶を飲み、読書、というわけにはゆかない。いままでよりもかなり忙しくはなった。
 九時前に、林語堂に行って、メールを開けると、倉庫から注文の本を探して送れるように揃えるのは、わたしのほうが早いので、それを一時間でやってから、十時開店のまるめろ文庫まで自転車で走る。店だから、営業時間は守らないといけない。
 掃除などしたことがないのに、そこではハタキをかけて、掃除機を動かし窓ガラスを拭く。ゆうべのうちに店に運んだ、仕入れではじかれた本は百円売りだ。それを品出しする。本の整理もする。林語堂では考えられないことをする。というのも、いつも林語堂を見ている友人が、床に置いたままの本を注意して、林語堂のようになったらどうするんだと叱られた。ここだけは、お客を入れているから、きちんと整理と掃除はしなくては。
 ゆうべのうちに運んでおいたわたしの打ち込みの本が二百冊ある。それが今日のわたしのノルマだ。林語堂から仕入れたばかりの本の束を夜のうちに運び入れ、それを一日がかりでデータにする。梱包や発送がないと、ただひたすらデータを打つだけなら、わたしの遅い指先でも二百冊は打てる。
 だから、お茶を飲んだり、読書をする時間というのはないのだ。データにした本はまた面倒だが、夜に車で林語堂の倉庫に持っていって番号順に並べる。
 店は暇ではない。常連の懐かしい顔ぶれがあり、暫く見なかった昔のお客も帰ってきて、いろいろと本の話もする。なんだか、創業当時を思い出す。これが古本屋なんだ。店なんだ。生きているお客を相手にしているのがたまらなく嬉しい。

 いままで、お客を忘れていた自分が恥ずかしい。いろんな方が入ってくる。
「古銭の本はあるかね」と、探しにこられる年配の方。
「なかなか入りませんね。型録も入りませんし、ボナンザの雑誌も近頃は見かけませんね」
 品のよさそうなおばちゃんが入ってくる。
「パッチワークの本はないですか」
皆さん、一通り探して見つけられないので、帳場でパソコンを打っているわたしに訊きにくる。
「本店に行くと月刊誌から作品集などの写真集もありますし、ここは百円なので、それでは勿体ないもので」
 と、説明すれば、
「そうでしょう。あれば高くても売れますものね。その本店ってどこにあるんですか?」とそちらに誘導してもいい。
 立ち話だが、お客と本の話ができるのも店のいいところだ。わたしより少し上の方が、
「フロイトの全集を持っているんだが、若いときに読んで、全然判らなかった。そのままにしてあるが、引き取ってくれますか」
 著作集で人文書院の旧版だと思うが、揃いなら万はつくだろう。新版はいま出たばかりだが、一冊は結構高い。
 何か若い女性がレジのところでもじもじしている。
「まるめろ文庫って、前にどこにありましたっけ?」と訊いてきた。
「市内に二店ありました。松原通りと浪館通りです」
 すると、女性は思い出したように、明るい顔になり、
「松原の近くに昔子供のころに住んでいて、わたし、よくマンガ本を立ち読みに行きました」
「おや、そうですか。あの店が最初でした。二十年以上になりますか。そこにわたしが座っていて、まるめろの親父といわれていたもんで」
「おじさんでしたっけ? 全然覚えていなくてごめんなさい。まだ小さかったから」
 そんな女性客が今日は二人もみえた。懐かしい店だというのだ。そう言ってもらえるのが嬉しい。

 知り合いが、見てくれないかと、『萬国名所図絵』全巻揃いと、『日本名所図絵』揃いを桐の箱に入れたまま店に持ち込んだ。頼まれもので、買ってくれないかと云うのだ。驚くほど保存がいい。あまりにも綺麗なので明治二十年前後の本とは思えない。中には銅版画が入っている。昔、バラではぼろぼろのものを扱ったことはある。復刻ではないだろうなと見てみるが、やはり本物だ。日本の古本屋のサイトでも揃いは一点より出ていない。十万とある。いくらで買っていくらで売ればいいのだ。
 それが値段次第では欲しいというじいさんが、傍で見ていた。売る客と買う客が同席する場面も古本屋では珍しくはない。

 お客と本の話ができて、本の相談も受ける。やはり店とはいいものだ。これで売れてくれたら最高だ。問題はそこだった。どうして店売りをやめたかということに立ち返ってみなければならない。お客は入るが本は売れない。本以外のものばかり売れて、やはり状況は変わっていないのだ。
 それでも、お客の顔が見え、直接、声が聞ける。そこからヒントは掴めそうだ。インターネットという隔離された世界で、お客が見えなくなったようだ。そのために、アンテナショップとしてのまるめろ文庫の店売りは大事かもしれない。