図書館には週に一度行っている。まとめて本を借りてくるのだが、一人五冊までなので、家族の名前で貸し出しカードを四枚作って持っている。
 先週借りた本は新刊なので、新刊コーナーに並んでいる本だ。古本屋は古い本はいくらでも入るが、新刊の情報には疎い。それで、できるだけ目を通すようにしている。わたしの読書は趣味だけでなく、仕事に関連するものだ。
 借りてきた本の中に、『食卓から地球環境がみえる』昭和堂刊があった。今年の三月に出た本だ。それを読み進むうちに、出てくる資料の写真に見覚えがあることに気がついた。次のページもそのまた次のページの写真もだ。
だけど、本のタイトルと文章には読んだ記憶がない。図録だけははっきりと覚えているのだ。
ーこの本は読んだ本だ。
 わたしは途中でぱたりと本を閉じた。
 毎日本に囲まれていて、本の情報過多になっているので、頭の中にいちいち入っていないのだろう。仕方がないと、思って、次の借りてきた本に移る。池澤夏樹の『星に降る雪』だった。これも今年の四月には店頭に並んでいた本だ。本のデザインやタイトルに覚えがないので、初めて手にする本のようにページをめくっていった。最初の四・五ページを読んで、あれっと思った。ストーリーが判る。次の展開を知っている。
ーあっ、これも読んだ本だ。
 少なくとも。ここ数ヶ月の間に読んだ本なのだ。わたしは少し戸惑った。アルツハイマーか。そういえば、ここのところ忘れ物やうっかりが多く、記憶が消えるということはないが、簡単な漢字も思い出せないときがある。
 人の名前も、よくここまで、出ているのにと、首か喉のところを指すが、人の表現は面白いものだ。記憶というのは、頭の中にはなくて、腹の中にあり、まるでげっぷでもするように、腹から記憶がこみ上げてくるのか。言霊思想と関係があるのだろうか。言葉は声として口からは出るが、思い出すのは海馬だから脳の一部だ。それをまるで、言葉が別の生き物のように言うのも日本的なものなのだろうか。
 ともかく、簡単なことが口から出てこなくなったので、進んできたのかと思った。うちの家系は男はみんな認知症だ。耄碌するのは男ばかりで、女はみんなピンとしている。
 ただ、そうなるのも長生きの家系だからで、八十を過ぎて、そろそろという兆候が出て、八十半ばで斑ボケ。九十ですっかりという感じだ。
 わたしはそれまでまだ三十年はあるから、いまはまだ大丈夫だろう。ならば、この同じ本を借りてきて読むというのはどうしたものだろうか。
 それは、若いときにもあった。同じ本を三冊も古本屋から買ってきて読んでいたことがあった。いずれも前半の数ページを読んで、気がついた。自分の好きなタイトルの本というのがある。それについつい手が伸びてしまうのだ。
 九十になる親父もボケたとはいえ、読書習慣は抜けないようで、いまだに図書館のリユースに行って、市民の寄贈本を買ってくるのだが、同じ本が我が家に五冊もある。親父の好みのキーワードは「生」「死」「愛」だ。この字があるタイトルの本に手が伸びる。多分、本を毎日読んでいるが、その内容について訊いても答えられない。読む片端から前の筋や内容を忘れてしまうので、最近はあれほど好きだった推理小説は殆ど読まなくなった。エッセイが多く、数ページで読みきれる短いエッセイ集が疲れないのだろう。
 うちのお客で、高齢になると、同じことを言っていた。若いときは、外国文学の長編でも読んだものが、最近は疲れると敬遠していると。
 長編小説でも全三巻となるとかなりの体力がいる。読んでいるうちに、次第に脈絡がなくなり、前に戻って確かめたりする。一日で読むのなら別だが、何日もかけると、前の部分が飛んでしまい、ストーリーが掴めなくなるというのだ。
 親父は、それでも本をいつも開いている習慣が抜けないで、しかも、三十分おきに、白い手帖に日記を書いていた。細かい字で、たったいまあったことを書き連ねておかなければ、自分という主人公の生きている小説の筋が読めなくなるのだ。アルツハイマーの人がそうするように、いま、自分は何していたかと、つまらない日常のことだが、それをいつもの小さなみみずの這ったような字で書いている。
 そうでなければ、飯を食ったことも、薬を呑んだことも忘れるのだ。一時間前の自分が判らないということはきっと恐ろしいことなのだ。自分の人生のたた一時間前からずっと何十年もの間が空白になって消えている。覚えていることは、もっと昔の、兵隊に行ったときのこと、さらに昭和初期の食えなかった少年時代のこと。それがぽつぽつと話せば口をついて出る。
 本も読んでいなければ不安なようだ。とにかく、文字があり、それを身近に感じながら、「読む」という行為の中に自分の存在理由をしがみつかせている。
 そんな親父を見ていたら、わたしの三十年後の姿が見えてくる。きっと、認知が始まり、人の顔も名前も忘れ、子供の名前も忘れてくる。実際、このたびの息子の結婚式に北海道から来た上の姉は、一年半ぶりに親父と逢ったら、親父に誰かと言われてがっかりしていた。娘の顔も忘れるのだ。
 わたしもそうなると、もう家族もどうでもよくなる。誰に挨拶されてもみんな赤の他人だ。ぺこりとお辞儀して、身内でも丁寧な挨拶で返すのだろう。
 本はいつも持ってあるく。それが物理学の難しい専門書であっても構わない。どうせ、意味も判らない。ただ、活字が並んでいたらいいのだ。杖をついても、毎日古本屋廻りをし、図書館に出勤する。それが日課のように、買わなくてもそこにいるだけでいい。ただ、それまで古本屋という商売が存続していればの話だ。図書館もないかもしれない。すべて、デジタル化、データベース化されて、読みたい本はダウンロードして電子ブックで読む時代であったら、きっと、本も忘れてしまうだろう。
 テレビ中毒患者たちは、テレビのない場所に一週間もいたら、不安で仕方なくなるだろう。新聞好きのお父さんも、新聞のない生活を一週間したら、世の中から隔離されたようで、いたたまれなくなるだろう。本もまた同じで、すべては文字と画像の情報なのだ。その情報が断絶されたら、中毒患者たちは、自分の位置を見失う。どこに自分が立っているのか。それは、海図とコンパスのようなものだ。情報で得られるもので、自分は常に決定されている。自分というものは、周囲の総体で決定されているものなのだ。自分の考えや好みで発信した電波が周囲の情報に当たり、跳ね返ってくるレーダーのようなものが、情報なのだ。

 親父は、自分がどこにいるのか、判らないことがとても不安なようだ。それで意味が判らなくても本のページを開いて、読むという行為の中に意識を埋没させておく。
 わたしもやがてそうなるのだろう。読書百遍とか葦編三絶ということではなく、同じ本を百冊買ってきても、また買ってくる。古本屋にしては実にいいお客だ。その本がいくらでも入ってくるベストセラーものなら、ボケたわたしも在庫のはけ口になるのだ。
 その病気につける薬はない。死んでも棺桶には本を入れておくように。あの世があっても古本屋と図書館はなさそうだから。