先日の糸島お話会の映像がyoutubeにアップされました。

 

kaoriさんは、福島県伊達市から、北九州市に昨年自主避難しました。自主避難を決めるまでの福島の日常がkaoriさんの話でご覧になった皆様も体験できると思います。

 

    ①    http://www.youtube.com/watch?v=fGjtI6yXo10
  ②   http://www.youtube.com/watch?v=nQwdVJS40Rg


kaoriさんのお話


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原発が爆発したって言っているよ」っていう話を、
「え?何それ?」って言って、
でも、その時もまだ停電をしていたので、いまテレビも見れない、ラジオもないので買えないし、
ホームセンターも、もう店も全部閉まっていたので買い物もできず、
車のエンジンをかけながらラジオを聞いたりもするんですけれど、
普段ラジオなんか聞かないので全然わからなくて、
分からない、何を言っているのかも聞き取れなくて、
でも、「60km以上離れていると思うから、大丈夫だと思うよ」って主人が言ったんです、
もうなんとはなしにね。
「そっか…」って、でもその時は余震がすごくて、そっちの方が怖かったですね、
で、余震が怖いから外出はなるべく控えていたんですが、
ほとんど食べるものがなかったので、スーパーがやっているかいないのか、
主人の自転車でウロウロまわりながら、
「あそこのコンビニでなんかちょっと買わせてもらえたから」って言ってお菓子を買ってきてもらったり、
あとは石油ストーブを長男が借りてきてくれたので、
それで冷蔵庫の冷凍ご飯を使っておじやをつくったりしました。

その時は、なんとなく放射能の事はここらへんにはあるんだけれども、全然無知で、
元々が原発という部分「怖いな」とは思っていたけれどもそこから勉強しようとは思っていなかったので、
全くこう、考えていなかったですね。
とにかく「怖いから家の中にみんなでいよう」みたいな感じでしたね。

それで、停電が解除されて、
長男も主人も仕事に行くようになって、
で、インターネットとかも見れるようになって、
そしたらね、携帯にチェーンメールがきたんです。チェーンメールっていうんですかね、
それがね、3人の友達から、それぞれみんなママさんなんですけど、同じメールがきたんですね。
ちょっと読みますね。

県立医大の放射線科の医師宮崎先生からのメールです。
これは「知り合いの看護婦さんが送ってくれました」という事で転送してくれたんですけど、
貴重な情報と思い、皆さんに転送します。
宮崎先生から。
これは3月22日のメールです。

この1週間は大学で生活していたようなものです。
最初は災害による患者さんの対応に始まり、後半は放射能との闘いでした。
特に、極めて少ない放射能が子どもに与える影響をどう判断するか?について、
(現状のレベルでは大人には何も影響しません。飲料水も含めて)
水曜日から金曜日まで、沢山の人が頭を振り絞って考えた現時点での結論は、
「少なくても、福島県中通りでは逃げなくてもいい」
「ヨード剤の服用も必要無い」です。
これはわたくし個人の見解では無く、福島医大や長崎大のスタッフ全体の総意です。
まだ公にはなっていませんが、
ただ、爆発や新たな放射能漏れがあれば話は別ですから注意は必要です。
爆発した場合は家の中にいる事で劇的に放射能を下げる事が出来ます。
その時はまたアドバイスできる時間はあると思うので、
(爆発の可能性は限りなく低いとも考えられています)
また子どもについては長期間国による健康保養が必要と考えています。
すでに働きかけが始まっています。
今はむしろ希望を持って仕事をしていますよ。
なんせ、子どもたちを守るための仕事をしていますからね。
「全ての事件が収まったのに、20年後には子どもがいなかった」なんて言うのは願い下げです。
このメールは必要であれば各者に転送してもらって、というよりは転送をお願いします。
以上です。


というメールが3つ届いたんです。

で、私はこれちょっと思い返している時に
「ああ、こういう文章だったんだな」というふうにあらためて思ったんですけど、
その時はね、正直、安心しちゃいました。

「あ、迷ってたけど、やっぱり避難止めよう」って、私は思ったんですよ。

だから、このメールを見ても避難した知り合いはいるし、
それは人それぞれの考えだから、
ま、私はこれで安心する材料にしちゃったんですよね。
「じゃあ、いいか」って思いました。

その時テレビがつき初めて、
番組がなんか、あんまりなかったんですけど、下にこう、放射線量が出るんですね。
福島市は確か20前半。
21とか2とか。
で(マイクロシーベルト)って書いてあって、ダントツで周りよりも高くて、
私は伊達市なんですけど、もう橋を渡るとすぐに福島市の場所にいたので、
ニュースを見る時には福島市の事をよく気にしていて、
伊達市の方はもっと別の中心で少し低かったんですよね。

でも全然その数字の感覚も分からないし、
「何だろうね、この20ってね?」って、主人とね、
「いやだね、ちょっと高いね、なんだろうね」という感覚でしたね。

で、山下俊一さんの放送もケーブルテレビで、
伊達市にいらっしゃった時のお話の模様があったんですけれども、
それを一生懸命かじるように見ていて、
またね、なんか面白可笑しく話されるんですね。
なんかこう、「もう大変だよね~ぇ。わかるよ、わかるよぉ~。」みたいな、
見た後に、「なんかあの人いい人だね」みたいな、なんかそういう、
後からすると「あれは騙されちゃうよね」っていう感じでした、本当にもう。

で、どこかに「安心したい」
「誰か私に安心する情報を頂戴」って、どこか思っていて、
「もう、この不安から逃げたい!」みたいな。
でも、「福島、この生活は離せない」っていう心境でずっといたので、

やっぱりね、パソコンもできたし、インターネットからいろんな情報も、
怖い情報もね、取る事は出来たんだけれども、
どーしてもやっぱりね、怖い情報だけに浸ることはできなかったですね、やっぱり。

「あの人はこういうふうに言っているけれども、この人はこういうふうに言ってるよ」みたいな感じでしたね。
ずーっとインターネットは見ていましたね。
テレビも同じような番組しかやらなかったし、

それで4月になって、福島市の息子が行っている幼稚園が新聞に載ってしまって、
それは3.8マイクロシーベルト以上の、そういう施設の一覧表があったんですね。
それにそこの幼稚園があって、親から電話がきて「あんた大丈夫なの?」っていわれて。
「えっ?!」

そこから、積算量、放射能の積算量を「ヤバいかも」って考えだして、
最初の20とかあった、だんだん数値とかいろんなものを勉強して、
「これ、ヤバい」って思うようになって、
4月から母子避難を考えるようになりました。

だけどやっぱり「一時避難しかしない」というつもりでいたので、
移住とかは全く考えられなくて、
新潟の宿泊施設に友達と行ったんですけど、
5月、1ヶ月いたんですけど、
もうちょっと長く居たかったんだけど、子どもがおかしくなったっていうか、
精神的になんか、ちょっとおかしくなって、

避難所、みたいな、そこの宿泊施設は100世帯以上の避難者がきていたんですね。
母子避難から、家が流されてしまった家族ごときている方もいらっしゃって、
だんだん、こう、密閉されたという中でね、100世帯の方がいるというのは、本当に息がつまるというか、
その宿泊施設の方も、新潟県の方もすごく良くはしてくれたんですけど、
あの…おかしくなってくるというか、
喧嘩とか、ぶつかったりとかね、避難者同士がぶつかったり、もめごとを起こしたり、
あと小さな子どもがいっぱいいるから、伝染病みたいなものも流行ったりとか、
あと、普通にお客さんで来る宿泊施設の方とのトラブルとか、苦情とかがあったりとか、
ま、いろいろあって、
私もちょっと追い込まれてしまって、お家に戻ったんです。
それが6月です。

6月に戻ってから、急に3人とも咳がひどくなりました。
もともと次男はぜんそく持ちだったので、
「梅雨に入ったし、新潟と伊達市では気候が違うから急に変わってぜんそくが出たんだな」と思っていたら、
3男4男も咳をし出して、
「あれ?風邪かな?」とか。
で、3人とも連れて小児科に行ったら、
その時に私も空咳が出始めていて、「何だろう?」って思っていたら、
喘息は喘息なんだけど、「3男も4男も喘息だ」って言われて、
「3人とも喘息だ」って、そんなこと初めて言われて、「えぇっ!?」って。

それで二男は点滴をするほどひどくて、喘息の治療薬をした方が良いと言われて、
で、その時はね、もともとすごく人気のあるお医者さんだったんですけど、
もう、座るところがないぐらいの患者数だったし、車で待っている人もいたし、
みんなほとんどが呼吸器系の患者に見えたんですよ。
なんか、吸引するのがみんなしているような感じで、
だから「ちょっとどうなの?」って思って、
「私も咳が止まらないです」って先生に言って、
どんどんひどくなるので同じ小児科で診てもらったんですけど、
「マイコプラズマかな?」とか言って、
でも結局そうではなくて、薬で収まったんですが、

なんかやっぱりその時ちょっと怖くてね、
怖かったですね。
戻ってきてしまった事で、「どうなんだろう?」って。
でもみなさん御存じだと思うんですけれども、
普通の小児科医、病院では一切「放射能のせいだね」なんていう事は一言も言わないし、
放射能の話も絶対に出ないんですよ。
で「放射能のせいとかじゃないんですかね?」とかちょっとでも言っても、
「あんた、そんな」とか、「じゃあ白血病の検査しましょうか」みたいな、そんな話になるので、
そこまでじゃないから、
結局鼻血をずーーっと出していても、
なんかその、「止血材を出しておいたから」みたいな、なんだったのかという事は絶対に言わないし、
どこの病院に行っても、私は3つ位行きましたけれど、絶対に言わないし、
甲状腺の検査もしてくれないし、
それは「県医大に任せてあるのでしません、やりません」という事はもう書いてあるんですね、受付などに。

なので交渉もしなかったし、
「あ、無理なんだな」っていう事で、そういう状況でした。

なのでずっと、九州に来るまではぜんそく治療薬は2男と3男はずっと吸わせていました。
そこは言われるままやっていましたね。
そして、夏休みは実家に帰ったり、あと保養をさせてもらったり。
もうその時はずっと、

私は、家もね、福島に来て2年経った頃に新築というか、家を買っちゃったんですよ。
なので、家も買ってローンもある。
旦那も福島の、転勤族ではないから、ね、伊達の仕事だし、移住とか引っ越しもあり得ないと思っていたから、
保養しながら福島を拠点として、
「なるべく低いところで過ごせるように最善を尽くすしかない」と思っていたので、
そうやって出たり入ったり出たり入ったり、
北海道へ行かせてもらったり、岡山へ行かせてもらったり、あと実家へ帰らせてもらったりとか、
夏休みとか連休とかを利用して、もういろんな忙しくしてたんですね。
それでいけると思っていたんです。

なんだけれども、
給食を断ってお弁当にしたんですけど、
クラスの中でお弁当にするというのは二人だけいました。
私ともう一人、
学年で多分二人ですね。

すごくそれも勇気がいる事で、
先生は何も言わないけれどもやっぱりなんか、みんなと違う事をする事が、
今もそうですけど、すごく抵抗があって、
でも「ここは」と思って「お弁当にしたいんです」というお願いをしてお弁当にするんですけれども、

その当時2年生の子が、「なんで僕はお弁当なの?」って言ってきて、
でも岡山で病院に行った時に、ほら、「やっぱり安心なものを食べた方がいいって言ったでしょ」って
「排泄が良い食事をした方が良いんだよ」っていうような感じで、私は正直に話しちゃったんですね。
「アレルギーだからね」とか言えば良かったんですけど、なんか、話しちゃったんですね。
そしたら子ども同士でね、
「僕のお母さんは、給食は安全だっていうよ。なんでお弁当なの?おかしい」って。
で、「うちのお母さんは安心なものを出している」って、弁当に入れてくれている。
イコール「給食は安心じゃない」っていう会話になるんですよ、子ども同士で。
で「おかしいって言われた」と泣きながら帰ってきて、
「ああ、もうちょっとうまくやればよかったな」とは思ったんですけど、
そういう苦痛もあって、

あと、懇談会などでは放射能の話はやっぱり出来ない空気になっています。
心配しているお母さんとか、んー、みんな心配しているとは思うんだけど、
それを出さない「前向きに行く」みたいなお母さんがメインに話をされるので、
私とか心配している方が、正直にね、たとえば(心配なんですよね)とかってお母さんだけの間で言うと、
やっぱりそういう、なんていうのかな、
「不安にさせる?言葉」は、こういう大勢の前で言ってもらうのは困るという事をハッキリ言われるんですね。

みんな、やっぱりどこか「怖い」とかいろいろあってね、こうやって騒がれているし、
それなのにここで頑張ろうって思っているのに、そんな事を言われたら子どもに通じて、
不安がね、通じて具合が悪くなる、精神的にストレスになる、って言われて、

やはり「えぇっ?」って思うんだけど、
「ああ、そうなんだ」って思って、それ以上の事はやっぱり言えなくて、
「言ってはいけないんだな」というふうになっていました。

そこがまた居心地がだんだん悪くなってきて、
そして、10月、11月ぐらいですかね、
団地に、みんなこう、お家を建てて、塊で住んでいるところに家を建てたんですけど、
自治会みたいなものがあって、ゴミ出しのルールとか、いろいろとあるんですけれどもね、
回覧板が10月位にきて、
まず、「土を絶対にゴミに出さないでください」っていうのと、
あと、草むしりをするじゃないですか、草とか落ち葉ね。
それは、ちゃんと払って出すとか、
その時はまだ袋の規制はなかったんですけど「えっ!?」
「木の丸太みたいなものは出さないでください」っていうのがきたんですよ。

木を出しちゃいけないんだって、
土を出しちゃいけないんだって、っていう話をしてて、
「やっぱり土は汚染されているもんね」みたいな話を主人としてて、

そう、それで大体うちの家の中の数値は
玄関から庭の当たりは0.5から1マイクロシーベルトっていう場所でした。
それは、伊達市の広報でくるんですけど、
分布図があって、私たちの住んでいるところは、メッシュみたいになっていて色分けされているんですけど、
0.5から1。
周りはもっと高いんですよ。
で、「あ、そうなんだ。そういう場所なんだね」みたいな感じなんですけど、
実際に数値を自分たちで測ると、ま、大体はあっているんです。
0.7~8ぐらいなんですけど、
やっぱりね、ある一点めちゃくちゃ高いっていうところは確かにあって、
ここは1を超えるし、
なんて言ったらいいんですかね、
「平均でいくつですよ」っていうお知らせは何の役にも立たないんだなっていう、
でもそれはね、私だけじゃなくて、みんな知っていますね。

テレビでも飯舘村は0.8とかって出るんですけれども、
笑ってます、みんな「ハハハっ」って。「あれ嘘だよ」って。
そこを綺麗にすればね、本当にきれいにすれば、そこだけを、本当になるんですけど、
それも知っているし、
周りがめちゃくちゃ高くてもそこが低かったら、そうやってなるし、
伊達市の市役所でも、そこだけを低くする事は出来ます。
福島市の数値もそうなんです。

でもみんな知ってる。
私たち、お母さん同士で「こんなの出しちゃってみんな知ってるのにね」って。
でも、ま、世間、もっと県外とかの人も多分知らないんだろうね、っていうふうな感じです。

で、家の中は0.2~3でした。
これはもうどんなに掃除をしても、水ぶきをしても、
あ、水ぶきは、直後はすごく低くなるんですけれども、乾くとやっぱり戻るし、
うちは2階も同じぐらいでしたけれど、
2階のベランダは0.7ぐらいですね。
そうだったんですね。

で、11月位になってもう一回回覧板がきて、
枝とか、草むしりをした草、落ち葉などのゴミは、
ゴミの日に「各家庭で一袋までにして下さい」ってきたんです。

わたしはその時にやっぱりどんどん怖くなっていたので、

そうだよね、落ち葉とかコケとかね、
コケはもうめちゃくちゃ、もう皆さん知っていると思うんですけど、
コケとか芝というのはなんか、めちゃくちゃ高く出るんですよね。
で、やっぱり親の心としては、子どもを外へ出さないようにはしていましたけれど、
全く出さない事は出来ないですね。
学校もあるし、ふざけていつ芝生に座るかもわからないし、
転ぶか分からないし、手をつくか分からないというのがあるので、ベタベタ壁にも触るしね。

やっぱりね、捨てたいんですよ。

もう、あって欲しくないから、
でも、除染はね、0.1~5のところは伊達市は、専門家に相談したい時は相談して、
「あとは自分でやって下さいね」という段階の場所だったんですね、わたしたちは。

なので誰にも頼れないし、もう自分でするしかないから、
マスクしながら草をとって、枝を取って、コケを取って、
週に2回ゴミの日に1袋ずつ出したりとかしてたんですね。
で、11月の後半にずーっとお休みだった「地域の掃除の日というのを再開します」ってお手紙がきたんですよ。

「あ、そうか、じゃあ日曜日はまた早く起きてやらなきゃね」なんて言ってやったんです。
夫婦で出てね、ごみ袋持って。
そしたら、家はやらないですよ、やっちゃ行けないというか、家じゃなくて公共の道路。
みんなが使っている地域の団地の中の道路とか、
子どもが通るようなところとかを重点的にやりましょうって、

もう、それは沢山のゴミが出てしまったんですけど、
「これは月曜日に回収しますので、一回持ち帰ってもらって、そして出して下さい」って言って、
月曜日は普通のゴミの日なので、家のゴミと別に出すんですけれど、
夕方になって家庭ごみだけ、生ごみだけは回収されているんだけど、
そのゴミがそのままあったんですね。

で「あれ、今日ゴミの回収がないね」なんて言って、
そしたら夜呼ばれて、班長さんが
その「ゴミの収集車についている線量計が集めている途中で鳴りましたので、そこで終わって帰りました」
というふうに言われたんですよ。
「なので、皆さん申し訳ないんですけれども、みんな分担して持って帰って下さい」
持って帰られたら、それをそのまま出されたらまた高くなってしまうので、
持って帰ったらそのゴミを開けて、自分の家庭ごみを混ぜて、新聞かなんかで蓋をして出して下さい
というお話があって、「えぇっ!」って。

もうその時もまた、「ヤバいんだ」と思って、
でもしょうがないからって言って持ち帰って、
それで、それをやりました、そのまま、そういうふうに。

で、その時に3つ位の袋を持って帰ったんです。
主人が帰ってきて、「もうこんなん言われて」とか言ったら、
「ちょっと調べてみる?」って言って、ごみ袋の上に線量計を置いたら、
3マイクロって出たんです。
もう、慌てて端の方に置いて、ビニールシートをかけたんですけど、
「もうヤバい」「もうヤバい」ってその時に二人で言ってて、

それで12月、1月、2月にかけて、
ホールボディカウンターの検査と、甲状腺のエコー検査があったんですね。
幼稚園とか小学校単位であって、
幼稚園の子は私が連れていったんですけど、親は入れないんですね。
見せてもらえないんですね、画像を。
「ちょっとお母さんここで待ってて下さい」みたいな感じでやってて、
子どもたちは小学校でやったのでそれも見ていないし、
私はホールボディカウンターの結果がすぐにきたので、「問題ない」ってきたんですよね。

でもあれはすごく許容範囲が広くて、
「あんまりあてにならないな」というのはあったんですけど、
私の中では「やっぱり大丈夫なのかな?」ってちょっと思ったりはしていて、

で、まだそんな事を思っている訳ですよ。
もう、精神状態がこんなふうに毎日違うんでね、
不安になったり、大丈夫頑張るみたいになったり、そんな感じなんで。

それで甲状腺検査の結果もなんか気にしていなかったんですね。
ホールボディカウンタ―みたいに「大丈夫」ってくるんでしょ。ぐらいな
ちょっとこう、そういう思いがありましたね。

そしたら、3月に結果が郵送されてきて、
次男と3男はA2という、
のう胞が、「5mm以下ののう胞が3つだか4つだかあります」というのが二人ともきたんです。
私はちょっと油断をしていたので、「大丈夫でしょ」みたいな感じで開けて、
もう、「あーーーっ」て。
で、それを見た時に私は、「私のせいだ」と思ったんですよね。
なんか、こうやってうだうだ悩みながら、ぐちゃぐちゃやってて、
その間にもう被ばくをさせていたという、それをすごく責めて、
建てたばっかりの家に住みたいし、
旦那の仕事を辞めさせられないし、
ここにいたいし、
生活レベルを落としたくないし、
「新しい土地で新しい生活なんて絶対に無理」って思っていながら、
「なんとなく気にしていればいいでしょ」位に住んでいて過ごしていた自分も、
もう、ムチャクチャ責めて、
「もう、全部諦めよう」と。
「しがみついているものを全部手放そう」というふうに、もうその時に決めたんですよね。

で、いつまでも、
毎日毎日旦那と、福島にいる間は、毎晩主人と話してね、
やっぱり放射能の話になっちゃうんですよね、どうしても。
「どうすんの?」って私がよく言うんだけど、
旦那に「じゃ、どうすんの?家建てたのにどうすんの?」って、
「じゃあ、仕事どうすんの?生活どうすんの?」って。
ってなって、決まって、旦那が「行ってきな」って。
子どもが僕も心配だけど家がある、仕事もある。全部なくせないからもう母子で行ってきな。
お兄ちゃん、長男と僕でこの家、後は実家でも何でもいいよ、って。
「保養でも避難でも行ってきな」って言って終わるんです。
「さあ、話は今日はこれでおしまい」みたいな感じで、毎晩同じ話をして疲れていたし、

だけど、その甲状腺の結果を見て、
3月何日かに、それはもう全部終わりにしようって言って。
主人にも相談じゃなくて、「私はこうします」っていう事を言おうと思って、メールをしたんです。
「甲状腺の結果、次男と3男がこうだった」って。
末っ子は問題なかったんですね、一番心配してたんですけど。
で、「そうだった、後で話があります」みたいなメールをしたんです。

主人はもう、見て、何を言われるのかわかるので、
いま話を聞くと「めちゃくちゃ怖いメールだった」みたいな事を言われたんですけれども、
私は主人と話をするために待ってて、帰ってきて、
こうだったからもう、もう、あなたはいいから、
私は自分の親に頼むから、もういいから、みたいな感じで、
「もう急いで準備するから」っていう感じで言ったら、
「一緒に行くよ」って言ってくれたんですよね。

私はすごく以外で、
「じゃあどうすんの?だって、誰もいなくなってどうすんのよ」みたいな感じで、
「いいよ行くよ、なんとかなるよ」
「もう諦めた、もういいよ」って。

やっぱり主人も自分を責めたんだと思うんですよね。
自分がいさせた。
保養に行く時も、「行ってきな」とは言うけれど、喜んではいないんですよね。
やっぱり自分が一人になっちゃうし、
長い間一人で、新しい家にポツンと、
ま、長男が居てもね、あんまり一緒にはいなかったから、
そんな家にいたってというのがあったし、
やっぱり面白くないような感じもあったから、それは分かっていたんですけど、
そういう自分をやっぱり責めてて、
「そういう生活があっても子どもの具合が悪くなる事と引き換えにはできない」という、
うちはやっぱり甲状腺の結果を見てからになってしまったんですけどね、

それで急いで準備をして、
そして北Q市と、いろいろ候補地をあげていただいて、知り合いの方に。
で、まあ、下見に来て避難が出来たというか、皆さんに支えられて引っ越す事が出来たんですね

「福島に戻りたい?」ってよく聞かれるんですけど、「戻りたいでしょ?」とかって。

私は、すごくこわかったので、
スーパーに行っても、なんにも入れられない。
「大丈夫だな」って思えるものが何一つない。
スーパーも何軒も回って、もうおかしくなって、怖かった思いとか

あとは、報道されていないような、むちゃくちゃ高い、
二桁ぐらい高い数値が出るような小学校とかもあるんですね、福島市には。
あるんですよ、除染も終わったあとなのに。
そういうところをたまたま、やっぱり。
みんなお母さんは持っているんでね、線量計を。

そういうところを見たりとか、やっぱりしてて。

いま住んでいる方には申し訳ないけど、
やっぱり、怖いですよね、帰ることは。

子どもが、息子もね、置いてきているし、
矛盾がすごくあります、心の中には。

だけどやっぱり、仲良くしてくれたお母さんとか、良くしてくれた方には、
「本当に会いたいな」というのは思うんですよね、本当に。
あの、「楽しかったなぁ」とかね、
でも、そんな事ばかり考えていては前に進めないので、
あの・・・ま、それはね、それとして、感謝で収めておくんですけど、
ただ福島で起こっている事や、圧力がかかっている事は、
「本当に福島だけのことじゃないな」というのは北九州に来て本当に思ったし、
いろんな方に会って、いろんな体験をしましたけれど、
やっぱり自立して自分で動いて、
面倒くさいけど考えて、調べて、
ちょっと怖いけど、電話したりとかして聞くという事をやっていくことが、やっぱり私にもできる事で、
ま、皆さんにもそうなんですけど、
「それがすごく大事なんだな」って、ちょっと、ちょっと
原発はやっぱり、
誰でもね、原発は怖いと思うし、
ただそこから、如何に自分の事として考えられる事が、
「なんかなぁ」って、遠いことじゃなくて、
で、じゃあここにいて何ができるんだろう?って、すごく離れて、「東北の方とか大変だけど」っていうけど、
蓋を開けたら、私たちは何時そういう目に遭うか分からないし、
実際本当に怖い目にあっているのかもしれないし、
それを分からない様にされているのかもしれないという事は
起こっているんじゃないかなと私は思っているんですね。
で、こんなことを言いながらも、本当に、本当にもうビビリだし、
本当に役所に@@さんと行ったりするんですけど、
わたしは一言もしゃべる事が出来ないんですよね。
役所の方も怖いし、@@さんも負けていないし、
私はもう本当にそばにいるだけで、署名もね、するんですけれども、
最初は私なんかそういう事はやった事がないので、もう飛び込み営業みたいな感じですよ。
だけど、本当に怖くてね「なんだ!」とか言われたりすることもあるんですね。
なんだろ?正義感でやっているわけでもないんですけど、
やっぱり私は話を聞いたり、自分は何もできないただのお母さんなんですけど、
でもやっぱり自分が体験したことや、
こっちの子ども達も、何のいわれもない汚いものを吸う理由はないと思うし、
なんだろ、そういう思いで、
じゃどうする?って自分に言い聞かせて、この間自分の時間をどうするの?って思った時に、
できる事をやろうと思って、
できる範囲で勉強したりやっているんですね・・・・・・


おわり-----------------------------------------------------------

今、復興、復興とテレビ、新聞で報道されてますが、

核種全ての測定の公表は一切されていません。


リスクの説明もされていません。


私の周りで一番最初に避難したのは、「医者」です。

放射能を大丈夫だという医者ばかりが出てきますが、一方で家族を福島から出し、自分も転勤願いを出し続け、福島から出た医者もたくさん知っています。


一方的な報道の中で福島の避難指定地域以外からの自主避難を選ぶことは、

本当に勇気と諦めが必要でした。


 また、一方的な報道のせいで、避難した北九州市でも、安全なのに福島から出てきたのだから、少しぐらい我慢しろという辛い言葉を浴びて傷つきました。

このような現実があることも知ってください。