日本人の道徳理念

 近頃気になる事が多くなりました。私も含めて成人男女に言える事なんですが、今回は特に目立った事が多く、10代から30代くらいの方についてであります。こんな事を書けば、なんじゃおっさんが!!となる事を判ってあえて旅の途中ですが、思いつく事を書いてみます。


自分がものすごいおじさんになってしまった気がするのですが、さて、気になる事と言えば、①平気で地べたに座り込んでいる姿です。列車の中、コンビニの前、階段、マンションのオープンスペース、極めつけは電車内の出入り口、しかもそんなところで弁当を食べています。


この様な人種を、ベジタリアンではなく、ジベタリアンと私は呼んでいます。

つい先日も新幹線のホームでも目撃、最近は私鉄や在来線の改札、電車の中だので抱き合ってチューしているカップルもいます。更には、駅の改札口の前で堂々とベタチュウを繰り返しています。


或いは、通学電車の中で大学生7人がクラブ帰りの様に見えたが、大股を開き10人掛けのところを7人で占拠していました。電車には60%程の乗車率でした。


そこに、白髪の上品なお見かけしたところ、70歳過ぎのお年寄り夫婦が乗り込んできました。私は立っていました。そのお年寄りの行方をじっと観察していました。                                当然隙間があいて座っている大股の大学生の前に行き、立っていましが大学生たちはぺちゃくちゃ喋っていて、お年寄りの姿を見ながら知らんぷりをしていました。


電車の運転が下手なのか、横揺れがひどく時々ブレーキがかかり、ガックンとしたりして思わずおばあちゃんが扱けてしまいました。それでも大学生たちは知らんぷりして、馬鹿話をつづけていて、どうしても我慢ならず、「君たちは何処の大学生か」と恫喝しました。


大学生の一人が、「なんやこのおっさんは」と来た。それはリーダー格の男のようであった。いまにも殴りかからん様相で立ち上がろうとする瞬間をついて、大学生の立ち上がりざまの股間に右ひざ蹴りをあてがった。

      

大学生はその場に「うっと」言って座り込み、青白い顔で苦痛に歪めていた。恐らくこの早業は誰も気づかなかったと思う。


「君ら学校で何を学んでいたんか」「社会道徳を知らんのか」と言ったら、先ほどの蹴り上げた大学生が、痛さをこらえながら車内の床に両手をついて「申し訳ありませんでした」と言って、6人を引き連れて隣の車両に行ってしまい、付近の乗客から拍手が起こり照れくさい時間でした。

この間ほんの1、2分間ぐらいの時間だったと記憶しています。


 この他にも、今の「日本人には倫理観が欠けてきている」という言葉をよく聞きます。先には若者の例を述べましたが、これは若者だけの話だけではないのであります。政治倫理、企業倫理をとってみても、まことに然りで事例を挙げれば枚挙に事欠かないです。

原発事故、東日本災害復興、嘘情報、やらせ、Data改算、汚職、贈収賄、脱税、殺人、公務員特別法違反、国会運営失態衆参議会、77円円高、企業海外脱出、何でも有りです。



 なんともみっとも無い話だと思います。ちなみに「みっとも無い」の語源は「見とうも無い」という言葉からきていて、これが訛ったものらしい。


ところで大人の条件とは、①自己中心性が無いこと、②観念的でないこと、③依存性がないこと、④逃避性がないことの4つだと言えます。ただし、私も含んでこれらの要素が全く無い人は存在しません。


だから、誰もが内に持っている幼弱性というものを、少しづつでも小さくしていこうと努力する人が大人であります。


 ここで、依存性と逃避性の無さを包括して、「自己責任性」と言い換えることが出来ます。そしてこれは、皆さんも十分お分かりだと思いますが、人間界のもっとも基本的な因果律であり、大人の最も大切な条件であります。


 要するに、自分のしたことや関与したことに対して、自ら責任を果たそうとすることだと思いますが、自ら責任を果たす限りは、行動の選択の自由が許されているということになります。


だから、責任を果たす力が無い子供には校則があったりして、大人に比べて行動の自由が制限されているわけであり、いつも結果を他人に依存している人、つまり、責任をとろうとしない人には、行動の選択の自由は許されません。


 従って、自己責任をとるということは、自らの行動選択の自由を確保しようとする行為であるといえます。これは自分を大切に思っているからにほかならないのであります。


だが、この心は一見自己中心性と見られるかもしれませんが、それは違います。自分を大切に思う心があるからこそ、他人が自分自身を大切にしたい心がわかるわけであって、これがあるからこそ、他人を思いやることが出来る人であります。


 「日本ではここ最近自殺の量が最も多い。自殺が多いと他殺も増えてくる。自分を大切に思わない者は他人を思いやることができないからだ。だから、これからももっともっと他殺が増えていくだろう・・・・・。」と 五木寛之先生が言っていました。


 日本人にはこうした自己責任意識が大の大人にも希薄になって来ています。政治家がなにかやらかしたら、「あれは秘書のやったこと。」と言い逃れ、かつて大和銀行(現在はりそな)のアメリカ法人が不正融資かなにかやらかしたときには、社長が「部下のやったことで、自分は知らなかった。」と記者会見で言っていたのを覚えています。


これを見たアメリカ人は日本企業は危機管理がなされてないと考え、それからかの「ジャパンプレミアム」が始まりました。アメリカの金融機関は日本企業だけには特別高い金利でしか融資しなくなりました。


そしてここから日本の金融機関の不正が次々と暴かれ、バブル崩壊の幕開けとなった事を強烈に覚えています。


 しかし、かつての日本には強烈な責任意識を持った人物も沢山いました。安達二十三(はたぞう)さんであります。太平洋戦争でニューギニヤに派遣された約14万人の部隊の司令官でした。

同部隊は圧倒的な物量差に、9割が戦死し、飢えとマラリヤに残ったものもすべてが病人という惨状でした。


 捕虜となった安達司令官は部下を弁護するために何度も戦犯裁判の証言台に立ち、自らも無期禁固の判決を受けました。そして安達司令官は隠し持っていたナイフで割腹し、みずからの手で頚動脈をしめるという凄絶な手段で自決しました。それも一通の遺書を遺して、これを見て感涙した事を覚えています。


 遺書には、無茶な作戦を立ててニューギニヤに派兵した、大本営に対しての恨みつらみは一言もなく、ただただ、戦死した部下への思いが綴られていました。


内容は『ニューギニヤに青春を散らした十余万の将兵を弔って』

 国家の危機には、最後の血の一滴まで振り絞って奮闘し続けるのが国民の義務と信じ、打ち続く戦闘と飢えに疲弊した将兵に対し、更に戦闘の指令を出し続けるという、およそ人として耐え抜ける限度をはるかに越えた辛苦になんとか耐えつつやってきた。しかし、それでも私の指令に黙々と従って力尽き、花吹雪のように次々と散り逝く姿を目の当たりにするにあたり、お国のためとはいえ、胸のしめつけられるこの思いは、ただ神のみぞ知る。そのような幾多の将兵に対して、私の死などなんのお詫びにもなりはしないだろう。だが、国のために殉じた、また私を信じてつき従ってきた部下の信と愛に万分の一でも応えるために私は殉じる・・・・・。」


何を言いたいかと言えば、責任のとれないことはやらず、責任のとれる範囲で人生をエンジョイする。これが大人のルールであります。


他方、ついこの前まで、責任感とともに、日本人には確固たる倫理観が存在していた・・・・・・・と言えます。それが何時頃から崩壊しだしたのかを調べてみると、それは、敗戦後のアメリカの占領政策にありますとの説が有力でありますと、あります学者から聞き及んだので、いい機会ですので少し紹介します。



 日本の太平洋戦争での異常な戦い振り(竹やり訓練、神風特攻隊・人間魚雷回天・玉砕戦法、科学細菌兵器など)などはアメリカ人を恐怖に陥れていた。これを振り返ってみれば、アメリカにとっては、占領後もうまく統治できるかを模索していたが、まじめに頭痛の種であったようです。


それでなくても、ハラキリ(切腹)については西洋人にとってはものすごいショックな出来事あり、並大抵どころか尋常でない恐怖心を一様に抱いていたと後日アメリカ人が語っていました。このように、とにかくものすごい根性の入った事をしでかす私達の大先輩である日本人は、アメリカ人にとってはすさまじくまじで怖かったと語っていました。



 そこで、当時アメリカ政府は考えて、考えた末に、歴史学だったか、文化人類学だったかは聞いて忘れていまったが、女性の学者ベネジクトに日本人のそうした精神背景を徹底的に調査するよう、時のアメリカ政府は命じました。



 この研究の成果が著書として発表されたのが、不朽の名著とされています、『菊と刀』である事はご存知でしたか。これがすべての真理かというと、なんとも言えないところですが、とにかく良く研究されていて、いちいち内容が鋭いのであります。

事実、この研究成果を利用したアメリカ政府の占領政策は、実に功を奏したといえます。その名残が今の世の中にまで、大きく影響を与えているのであります。

 ベネジクトは著書でこう述べています。


「日本人の倫理観もしくは、価値観は『恥じ』の概念がその根底にあります。」そう言われてみれば、確かに武士の世界には「生き恥をさらす」とか「面子」いう言葉がありますし、武士の生き様は「死の美学」であり、いかに美しく死ぬかということであります。

これは逆に言えば、いかに恥ずかしくなく死ぬかということであります。



 アメリカ政府はこれを受けて、倫理観を無くすためには「恥を感じないようにさせていくことが肝要」として、「3S政策」なる占領政策をとりました。「3S」とは、次の3つのことであります。

1.SEX : 性表現の解放により性欲を刺激し、恥ずかしさを麻痺させる。

2.SCREEN : 映画やテレビの普及により、豊かなアメリカを見せ、物欲を刺激する。

3.SPEED : バイクや車を普及させ、スピードに熱中させる。


つまり基本的な欲望を刺激していこうとしたわけであります。さすがはアメリカ、大国は良きにつけ、悪しきにつけ、考えることが違います。知恵があります。



 その戦略は静かに、そして確実に実行されて実を結んでいきました。そして、日本人の倫理観や価値観は麻痺していったのだ、ということでした。更に戦後の大きな転換期には全国の先生方の集団が、道徳教育の廃止を行ったのももう一つの大きな要因であります。


天皇制反対や国旗掲揚、国歌斉唱などまっこうから二分してしまいました。その結果、若者や大人たちに倫理観や道徳、常識が無くなりつつあるのが現状です。

 最近は特に、権利、権利と叫んでいる方が多い様ですが、権利の裏には義務もある事を忘れてはならないと思います。


実に怖い世の中です。恐ろしいです。でも、だからどうすればいいのって聞かれても、現時点では解答に困ってしまいます。なぜなら国家の問題もあり、一個人レベルでは解決出来ない問題であり、それから先はまだ考えがまとまってないのであります。


取り急ぎの当面の解決方法は、子供の教育で塾に行かせたりしていますが、まずは格闘技、空手、柔道、剣道、などで精神と肉体を鍛える事に有ると信じています。そうすればおのずから頭の中も鍛えることとなり、優しさや、いたわりの心、競争心、忍耐、努力、などがサバイバル状態で見につく事は間違いありません。


私も上級有段者であり実戦空手を学んでまいりました。また、最後に自分にできることとして、とりあえずは、自分だけでもきちんとした行動規範が伴なわなければならないと思っています。


知って知らんぷりは駄目です。大人が身を以って社会教育をしなければならないと思います。学生の諸君にも道徳をわきまえた方がいる事も事実です。しかし、道徳や倫理観のない無教養な者もいるのは事実です。


もしそんな者がいれば、無理のない程度に知らん顔しないで、少しでも優しく、或いは厳しく、慈愛を以って教育的指導をお願いします。

外国から観光に来られた方々も大勢いらっしゃいます。恥ずかしくない日本人でありたいと願っております。 きたやん(osaka)より