2011年・日本
監督が女優に恋をしている。
それがよくわかる。
滲み出している。
恋情が。
東電OL殺人事件からインスパイアされた作品。
登場する女の一人は、そのまま東電OLの素性から作られているキャラクターであった。
その女の持つ渦の中に巻き込まれていく、普通であった主婦。
この主婦を演じているのが、神楽坂恵だ。
この女優に、園子温監督は恋をしている。
主演は水野美紀だと思っていた。ところが、違った。
この作品の肝は、神楽坂恵だ。
豊満な肉体を惜しげもなく酷使している。
ブルンブルンである。
中盤までは戸惑った。
もしや大根・・・?と思う滑り出し。
殊にソーセージは笑ってよいのかどうなのか、しばし悩んだ。
が、この女優が覚醒してからは目が離せなくなった。
戸惑ったのは、セリフの扱い方のせいかもしれない。
この作品は演劇的で、登場人物たちが投げつけるように台詞を吐く。
大根スレスレなのである。
そこに慣れるのに、いくぶん、時間がかかった。
映像は強烈で、終盤に向けてどんどん濃密になっていく。
堕落と日常の境界は、高い高い壁ではなく、駅のホームの白線ほどにもか弱いということを、差し出して見せるようなシーンの積み重ね。
猟奇的な描写も、その中に美しさを漂わせていた。
ただ、最後まで違和感が離れなかったのは、東電OL事件を下敷きにしていたからだろう。
あの事件はセンセーショナルであった。
事件を元に、いくつもの作品が生まれた。
けれど、実際の事件を超えられた作品はいまだに無い。今作も含めて。
いわば、東電OL事件はいろんな意味で、手垢がベタベタに付いてしまっている。
被害者は圧倒的な弱者であるはずなのに、その弱者を墓から掘り起こして弄り回している。
そんな印象が拭えない。
事件後、遺族が沈黙を貫いてきたせいもあって、その人物背景が注視され続けてきた。
想像が膨らみすぎている。
そこにあるのは好奇の目であって、一種、蔑みの目であって、同情や憐憫のそれではない。
だからこそ、こんなにもモチーフとされるのだろう。
東電OL事件の被害者像はキャラクターとして、それだけで鉄板である。
その鉄板の上に、作品を作る。
これは乱暴な言い方をすれば、委ねてしまえるのだ、人物像作りを。
脚本も書いた園子温監督は、さらに、劇中で詩人や作家の言葉を引用していた。
それらの言葉は映画の柱にもなっていた。
ここでもふと、感じてしまったのである。
それは、人の言葉ではないか?
寄席の舞台のようなものだ。
客席から一段高いところに実際の事件というステージがあって、その上に被害者像という高い台を置いて高座を作り、さらにその上に他人の言葉という座布団を敷く。
これほどの映像が作れて、これほど女優の心身を解放できる監督ならば、借り物ではなく、あり物ではなく、自身の内側から搾り出した人物や台詞を観たかった。
と、人様が苦労して作り上げた作品をあーだこーだと弄り回している匿名の当方が言っても、まったく説得力はない。
それでもなお、園子温監督にはたくさんファンがいらっしゃるとわかった上で、この映画に熱があったからこそ、言いたくなったのです。
渋谷円山町で殺された女性には、遺族がいる。
その根底を忘れて、監督は恋に溺れているように見えたのです。
『恋の罪』
スクリーン
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