1939年・アメリカ
高慢。勝気。強引で強情。唯我独尊。負けず嫌いの天邪鬼。
往々にして投げやりになり、自己憐憫を自己陶酔に昇華して、困難が立ちはだかるほどに力強く、手段は選ばず、他人の心情には無頓着で、美貌と体力と策略と、時折見せる純情さで、一本気で、あらゆる困難を乗り越えていく。
そんな女がいる。
スカーレット・オハラという。
スカーレットを見かけたら、回れ右をして商店の陰に隠れたほうがいい。
男も女も出会ったら最後、この女の熱に浮かされてしまう。
毒婦である。
そしてもう最高に、最低に、面倒な女である。
めんどくせーのである。
嫌いが好きで、好きが嫌い。
自分のプライドに殺されそうになっている。
しかし、死なない。
なんとなれば、強いからだ。
強靭である。
「こんな女はイヤだ!」
土曜の夜のランキングが頭に浮かぶ。
「バカヤロっ!」
後ろから、絹糸のような黒髪を叩きたくなる。
スカーレットはコマの支柱だ。
周囲の全てを振り回して、コロコロとその人生を転がして、気がついたら自分の方向も見失っている。
家族にいたら、惨事である。
好きになったら、大惨事。
近寄れば怪我をする。
それどころか、あらゆるモノを奪われかねない。
しかし一方で、幾度となく失い、また立ち上がっていくスカーレットの姿は鮮烈だ。
その姿が初公開当時、大戦から復興を目指す日本に光を与えたのだという。
それから73年、震災後にあらためてこの作品に向かうと、再びスカーレットの燃えるような生命力に、希望がチラチラと重なりもするのだ。
前半のラストでは、憧れさえ感じてしまった。
あの強さは、忘れがたい。
ヴィヴィアン・リーは、スカーレット・オハラそのもの。
その奔放な人生も、策略に満ちた性格も、役柄にダブる。
薔薇が人間に姿を変えたような女性、それがスカーレットであり、ヴィヴィアンであった。
全編を通して、26歳の女優がこの大作を牽引している。強い。
クラーク・ゲーブルは、口が臭い。という逸話が強烈すぎて、キスシーンが気になって気になって、抱かれた子供が顔をそむけたりするともう、気になって気になって、すみません、邪念が入りすぎました・・・
オリヴィア・デ・ハヴィランドは素晴らしい。
マザー・テレサのようなメラニーを、真摯な包容力で演じている。
しかも95歳の今も健在!
この人もまた、強い。
この作品には、とてつもない数のエキストラが登場する。
線路に横たわる傷病兵のシーンなどは、見渡す限りの人、人、人。圧巻だ。
これらの人の食事だけでも、大工場の社員食堂以上は必要。
画面いっぱいに炎が上がる。
その火薬の量、特殊効果に関わるスタッフはかなりの規模のチームであっただろう。
華麗なドレスを始め、職業・階級ごとの衣装、その制作、管理だけでも膨大。
喪服だけで何パターン用意されていたのか。
壮麗な音楽、撮影、カメラ・フィルム開発、録音、音響、照明、壮大なセットを作り上げた大道具、時代考証された小道具・・・
この映画1本で、どれほどの雇用が創出されたのだろう!
まさに、産業である。
子供の頃、初めて観た際に、大戦前にアメリカはコレを作っていたのかと呆然となった。
昭和14年の製作と聞くと、今でも驚嘆する。
タラの地に立つスカーレットのシルエットは、無条件に鳥肌を立たせてくれる。
やはり、めんどくせー女だ。などと思いながらも、あのテーマ曲が流れると、何かが一気に押し寄せてくる。
あれは戦時を生きたスカーレットの、この映画を作り上げた映画人たちの、たくさんの熱だったのだなと、いま、思います。
『風と共に去りぬ』 GONE WITH THE WIND
午前10時の映画祭
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