この日予定していた探検の大部分を終え、南木曽町の国道19号を北上しながら「水」ゆかりの場所を巡る一行が立ち寄ったのが、「かぶと観音」でした。


 19号を北上し、吾妻地籍から読書地籍に入ってJR中央西線の高架橋をくぐり、最初に渡る神戸沢に架かる橋がその名も「かぶと橋」。その先の「神戸」交差点を右に折れて坂道を道なりに上っていくと、程なく木立ちの麓で道が二又に分かれる場所に行き当たります。「かぶと観音」は、その木立ちの中にあります。


 階段を上り木立ちのある境内に出ると、正面に観音堂と思しき建物が見えます。外観から察するところかなりの年代物。町教育委員会の案内板によれば、そもそもこの「かぶと観音」の由来は、平安末期、かの木曽義仲が以仁王の令旨を受けて平家打倒のために挙兵した治承4年(1180年)にまでさかのぼるとか。北陸道を都に上る義仲が、木曽谷の南の押さえとして妻籠に砦を築いた折、その鬼門の方角に当たるこの地に祠堂を建立し、彼の兜の八幡座の観音像を祀ったことにちなむそうです。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 観音堂


 ここで疑問。北陸道を上京中のはずの義仲が、どうしてわざわざ遠く離れた木曽の地を訪れて祠を建て、兜の観音像を祀ったのか。このエピソードの真偽について、南木曽町誌の執筆者は否定的な見解を示しています。曰く、義仲が育ったのは木曽でも北の方で、挙兵後に南木曽の地に足を踏み入れる必然性はないと。でも、この場所で史実を語るのは野暮というもの。義仲と巴のロマンスを想像した方が楽しそうです(不謹慎ですかね)。


 ついでにもう1つ。「八幡座」とは? 調べてみると、日本の兜は鉢の頂きに穴が開いていて、その周りが金物で飾られていたとか。この飾りを「八幡座」というそうで、別名「神宿(かんやどり)」とも呼ばれ、文字どおり「八幡神」が宿るところとのこと。八幡神は、神仏習合による神の最も古いもので、もともと農業神だったのが、時代が下るにつれて源氏の氏神となり、武神・軍神としての性格を強めていったのだそうです。


 それはさておき、そうした伝説からか、かぶと観音は木曽ゆかりの武将たちの保護を受けます。天正17年(1589年)には、戦国時代の武将で後に初代木曽代官となる山村良候(たかとき)が中心になって堂舎が造立されたとか。一般庶民からも信仰され、堂内には江戸初期の正保年間(1645~48年)の絵馬も残っているそうです。幕末の弘化4年(1847年)の堂舎改修に際しては、美濃からも寄進が集まっていて、信仰の広がりを窺わせます。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 案内板2


 堂舎の建築年代は、その様式から貞享・元禄期(1700年前後)と推定され、中に安置されている厨子も正徳年間(1710年代)の作とのことで、平成6年に町の史跡に指定されています。


 観音堂の左手には、一際目を惹く石造りの観音像が建っています。平成9年に町によって堂舎の解体修理が行われた際、これに併せて地元住民によって建立されたもので、堂内の厨子には新たに作られた本尊も安置されたそうです。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 石像


 その反対側には、これも目を見張る大きさの水舟が据えられています。傍らの立て札には「『袖振りの松』の水舟」とあり、その由来が書かれています。この水舟、御記憶の方もおられるでしょう。拙稿「袖振りの松 」で御紹介したあの水舟です。実際に間近で見ることができるとは、感激の極み! 探検活動で今まで幾つも水舟を見てきましたが、これほど大きなものは初めてです。もとの松が生えていたと思しき場所の近くには、「ふりそでの松」と彫られた石碑もあります。名水探検隊としては、水舟が満々と湛える水が飲用できれば申し分ないのですが、残念ながら飲用ではないとのこと。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 「袖振りの松」の水舟  木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 案内板


 水舟の前には鎖で囲まれた石があります。何でも義仲が兜を置いて休んだという「腰掛け石」とか。表面に出来た幾つかの窪みは、地元の子どもたちが小石で掘り込んだものだとのこと。水舟は、地元の人たちによって、腰掛け石の側に寄り添うように置かれたそうで、義仲と巴を敬愛する人たちの心憎い演出です。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 義仲公腰掛石


 ところで、「腰掛石」というのは全国各地にあるとか。神や貴人が休んだと伝えられる石を尊ぶ信仰の表れなのでしょうか。古くは日本武尊(ヤマトタケルノミコト)、武人では木曽義仲のほか源頼朝・北条政子、源義経、豊臣秀吉、宮本武蔵、文化人では菅原道真などの腰掛石があるそうです。


 源氏の大将として平氏を追討し上洛、征東大将軍にまで任じられた義仲ですが、不器用さゆえに都の人たちから疎んじられたあげく、一族の源頼朝との抗争に敗れ、近江の粟津ヶ原で源義経の軍勢の前に討ち死にしてしまいます。歴史書は勝者の側から描かれがちなこととて、義仲も粗暴野卑と悪く書かれることが多いようですが、各地に伝説が残り、今なお彼の純朴さに惹かれ、彼や彼の愛妾巴を追慕する人も決して少なくないところを見ると、とても魅力的な人物だったに違いありません。

木曽路名水探検隊のブログ-かぶと観音 「ふりそでの松」石碑


 長野、富山両県を中心に大河ドラマの主人公に推す動きがあるようですが、ぜひ実現してほしいものです。(aki)