本日の御書です。

「日蓮がたましひをすみにそめながして、かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が、たましひは南無妙法蓮華経に、すぎたるはなし」(P1124経王殿御返事)


よく日顕宗の輩は、「御本尊に開眼供養しなければ、魂が宿っていないから魔仏である」と主張します。なんと浅はかで馬鹿な言い分でしょう。
大聖人の“魂”は、南無妙法蓮華経です。御本尊を見れば、大聖人の魂がど真ん中にあることは一目瞭然です。その御本尊をニセ本尊と誹謗しているわけですから、私には恐ろしくて理解できません。
要するに彼らは、御本尊をたんなる文字としか見れていないのでしょう。学会の御本尊にも大聖人の魂・御心が厳然と具わっているのです。
彼らは、いったいどんな“魂”を入れようとしているのでしょうかね?


先生のご指導
「日蓮大聖人がお認めの御本尊は『仏の眼目』(P841)そのものであられる。ゆえに、あとからあらためて『眼を開く』必要も、『魂を入れる』必要もない。『日蓮が魂を墨に染めながして、書き認めたのである』(P1124)『一念三千の法門を振りすすいで立てたのが、大曼荼羅である』(P1339)このように仰せの御本尊であられ、御本仏日蓮大聖人の御生命の当体であられる。無限の『仏力』『法力』を具えておられる。ゆえに、残る大切なことは、形式ではなく、拝する者の『信力』『行力』である。強く、正しき『信』『行』の力によって、御本尊の仏力、法力が発揮されるのである。『信力』も『行力』もない、謗法の僧侶が、どんなに荘厳めかした儀式をしたとしても、何の意味もない。そうした儀式は、まったく必要ないのである。むしろ、正法広宣流布に生きる私どもが朝晩、端座して、御本尊を拝することが、大聖人が教えられた『開眼』の本義にかなう実践となっている。」

(1992年12月23日)