随筆応募 佳作入選作品 佐藤 千佳子


家族と過ごした一番平穏な日々がここにありました。

そして、今でも私の心の中に鮮烈に残っています。

すでに50年の歳月が流れ、ほんの短いひと時だった大沼公園での生活。

父は旧国鉄職員でした。帽子には赤いラインが入っていたことを覚えています。

良くふたつ違いの弟と大沼公園駅の裏側にある鹿公園や森の中で遊んでいたものです。

弟はやっと歩けるようになったころだったのではないかと記憶しています。

今の環境だと、やっと歩けるようになった子と4歳程度の姉弟ふたりで森の中を自由に遊びまわるなんて考えられない事でしょう。

そんなある日、お友達の家からの帰り道のことでした。

弟と手をつなぎ、歌を歌いながら自分の背丈くらいの笹やぶの道を歩いている時のことです。

急に笹のこすれる音が森中に響きだし、目の前の笹薮の中をものすごい速さでしかも子供の腕では抱えきれないほどの太さの長いものが、ザッザザザザァーと駆け抜けて行きました。

思わず私は立ちすくみ弟の手を放してしまったのです。

弟は「おねーちゃん怖い!」と言って、そのまま駆け出して行ってしまいました。

その場から動けなかった私がもとの森の静寂な空間に戻ったとき、初めて「今のはなんだったのだろう」と我に返りました。

母からよく「言う事を聞かないと沼の主に連れて行かれるよ!」と言われていたので、もしかしたら今のが「沼の主」だったのではないかと幼いながらにもそう思い、長い間この事は誰にも話せませんでした。

そして、弟が慌ててかけて行くうしろ姿を思い出し、怖がっている弟を守れなかったことをとても後悔しました。いえ、50年たった今でも後悔しています。

病弱だった弟はその後、3歳3カ月で虹の橋を渡って逝ってしまいました。

父と弟の思い出が本当に少ない私と勿論母も同様です。

母も実質の夫婦生活は本当に短かったと思います。まだ元気だった父の妻であり、二人の子供のお母さんであった幸せな瞬間がここ大沼公園にあったのではないかとも思っています。

父が大沼公園から次の勤務地へ着任してまもなく、幸せだった四人家族は弟の死、父の脳腫瘍の発病に伴う長期入院のため母は病院に付き添い、私は叔母の家に預けられもう二度と大沼公園の時のような4人家族での幸せは戻ってきませんでした。父は私が小学校に入学した5月に亡くなりました。

父と家族四人で乗った大沼での手漕ぎボート、弟と一緒に拾ってたどんぐり、そして良くおやつとして食べた大沼公園駅の売店で売っていた「アンパン」。とっても幸せでした。

私にとって四人家族で幸せに過ごした唯一の想いでの場所大沼公園。ここを訪れるとき、私の心はいつもあの頃の四歳の女の子にタイムスリップしています。たくさん辛い事もありました。でも、ここ大沼公園そして日々素敵な色に変化する山肌の駒ヶ岳、記憶に残る風のかほり、私にとっては安らぎと勇気と私の家族を思い出させてくれる大切な場所です。


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