50日 | みかわの徒然日記

みかわの徒然日記

最重度の知的障がい,強度行動障害をあわせもつ自閉症青年きら。
ついに30歳のどすこいくんに変貌した次男坊。
仕事と秘密基地をこよなく愛すつれあいダンナ氏。
きらと家族の何気ない日々。
きらの親亡き後に向けて本格始動。

あの日から50日

あっと言う間だったような気がする。

でも、玄関に準備されている避難バック

ソファーが定位置の猫さんキャリーバック

薬バックと持ち出しバック、いつものバック

携帯ラジオに懐中電灯、そして常に充電されている携帯

それらは、あの日を示している


ML仲間の先生のおかげで石巻特別支援学校の先生と話す機会をもらった。

甚大な被害受けた石巻

障害児者の避難所としてだけではなく、地域の方の避難所にもなっている石巻特別支援学校

その避難所運営

そして、5月12日の始業式、入学式に向けての準備

淡々と話される・・

その一言一言に重みがある。

ただ、ただその一言一言に感謝



今日、新幹線開通・・・

これで九州から青森までつながった。新幹線


津波の被害が甚大だった仙台空港飛行機

一か月で劇的に再開

その陰には・・

被災地の翼呼び戻す 仙台空港再開までの1ヵ月」・・河北新報

東日本大震災で大津波の直撃を受けた「東北の空の玄関口」仙台空港は今月13日、暫定ながら国内線の運航再開を果たした。震災からわずか1カ月。到底、不可能と思われていたスピード復旧の舞台裏と空港関係者の思いを伝える。(門田一徳)

◎米軍トモダチ作戦/滑走路復旧24時間態勢で/筋金入り部隊けん引

 開港以来、最大のピンチが襲った。仙台空港長の大坪守さん(55)は言う。
 「滑走路に車やがれきが散乱し、泥は深いところで膝まで埋まった。再開時期など皆目、見当がつかなかった」
 大津波の5日後、3月16日。窮地を救う男たちが、その空港に降り立った。米軍の兵士だった。
 米軍による被災地支援活動は「トモダチ作戦」と名付けられた。仙台空港には沖縄県や静岡県、ハワイから空軍、陸軍、海兵隊の260人が投入された。空軍はソマリア、ボスニアなど紛争地帯でも緊急滑走路を建設してきた筋金入りの特殊部隊だ。
 機能停止した管制塔に代わり、隊員自ら離着陸を誘導し、夜はカンテラをともした。がれきの撤去作業に使う重機や部隊の輸送機が次々到着した。
 24時間態勢の作戦が始まった。隊員は駐車場などに野営した。持ち込んだ作業車両は100台を超える。車やがれきの撤去は海兵隊と陸軍が担った。
 滑走路上など敷地内に散乱する車は、1台ずつフォークリフトでトラックに載せて排除した。その数は2000台以上に及ぶ。がれきは大型ブルドーザーでかき集めた。
 毎日午前9時に開かれた調整会議。米軍は「仙台空港を被災地復興のシンボルに」というフレーズを繰り返した。空港や陸上自衛隊の関係者は、この言葉に「大いに励まされた」と言う。
 3月31日には、3000メートル滑走路と緑地帯からがれきが消えた。4月1日からは、ほこりに弱い旅客機でも安全に離着陸できるよう、滑走路上の小さなごみを手作業で回収した。
 5日以降は空港部隊の規模を縮小し、石巻市でもがれきの撤去作業を始めた。大津波からちょうど1カ月の11日。「ほかにも困っている被災者がいる」。隊員全員が仙台空港から次の被災地へと転進した。
 米軍とともに、日本の男たちも懸命の働きを見せていた。米軍の輸送機が着陸できるよう、3月15日までに滑走路1500メートル分のがれきを撤去したのは、ふだん滑走路の維持管理を請け負う前田道路(東京)の作業員たちだった。
 被災地の空に翼をよみがえらせた「トモダチ作戦」。米軍は1カ月間に自分たちが出したごみを全て持ち帰った。
 日米共同仙台空港現地調整所長を務めた陸上自衛隊幹部学校戦略教官の笠松誠さん(45)は振り返る。「震災という非常時でありながら日本の文化を十分に熟知し、被災者へのいたわりを忘れない部隊だった」
 撤収後の空港からは、米軍が駐留していた気配が完全に消えていた。


◎空港ビル/泥とがれきと連日の格闘/100人以上で突貫作業

 仙台空港ターミナルビルの1階。航空会社の受付カウンターからパネル1枚隔てたバックヤードには、津波の痕跡がまだ残っていた。分厚い窓ガラスのほとんどが割れ、扉も流されている。
 かつての旅客ロビーに照明はなく、ほの暗い。時計は津波が到達した午後4時で止まる。天井からは津波が運んだ雑草が垂れ下がり、油の臭いが漂っていた。
 延べ床面積4万3500平方メートルの空港ビルで、13日に運用が再開できたのは1階の2200平方メートルにすぎない。今も停電と断水が続く。
 「これでもだいぶきれいになったんですよ」。仙台空港ビルの総務部長代理佐藤達也さん(50)は、空港再開にこぎ着けた1カ月間の突貫作業を振り返った。
 空港ビル内に流入したがれきの撤去は、水が引くのを待って3月16日に始まった。作業に当たった人員は連日100人以上。再開前日まで泥やがれきと格闘した。
 再開後、最後まで残った水道管や重油パイプが走る地下室からの汚泥除去もほぼ終わった。復旧作業は「応急」から「本格」へと切り替わった。
 空港ビルは、7月までに2階搭乗口の利用を再開し、9月には完全復旧するという目標を掲げた。宮城県も、国際線と鉄路の仙台空港アクセス線の9月再開を目指す。
 仙台空港の利用客は2009年度で280万1000人。空港ビル専務の大平輝雄さん(61)は「空港には復興を進める潤滑油の役割がある。一日も早くにぎわいを取り戻したい」と力を込める。
 現在の空港ビルは1997年にオープンした。総務部長代理の佐藤さんは震災直後からそのビルにとどまり、取り残された利用客や近隣からの避難住民の世話、外部との連絡調整に奔走した。
 仙台空港一筋に31年間、働いてきた。「今のビルは先進的なバリアフリー設備が特徴で、人に優しい施設として全国から注目を集めた」と佐藤さん。ビルへの思い入れは誰よりも深い。
 「これからが本当の始まりだ」。生粋の空港マンが再起を誓った。


◎航空会社/拡声器でアナウンス荷物はリレー/不便さ人力でカバー

 仙台空港ターミナルビル1階の仮設ロビーに、くぐもった拡声器の声が響く。
 「12時30分発、羽田行きご利用のお客さまは出発口にお進みください」
 館内アナウンスは使えない。全日空は利用客の聞き漏らしを防ぐため、拡声器で10分ごとに出発便を知らせる。
 運航掲示板はマグネット式だ。利用客の荷物を送るベルトコンベヤーも動かないため、スタッフがバケツリレーの要領で運んでいる。
 「まるで昭和40年代に戻ったようだ」。全日空仙台空港所長の猪木康正さん(53)は、人力で運航を支える苦労をこう言い表した。余震が続く中、万が一の事態に備え、カウンターとロビーのスタッフも震災前の2倍の8人に増やしている。
 震災前の荷物受取所を受付所、受取所、搭乗待合室に3分割して使っている。スペースは手狭だ。
 出発便と到着便の重複による混乱を避けるため、全日空と日本航空は、複数の飛行機が同時に駐機しないよう調整した。旅客機も定員160~170人の中型機に限定している。
 ほとんどの便で搭乗率は8割を超える。「利用客の多くはビジネス関係者。支援物資などの大きな荷物を持ったお客さまは、あまり見られない。復興が進んでいる証拠かもしれない」。利用客の様子に猪木さんは地域経済再生の息吹を感じる。
 羽田線と大阪(伊丹)線の計6往復で再開した路線は、21日から計8往復に増便された。27日からは札幌、名古屋とも結ばれる。29日には夜間運航も始まる予定だ。
 全日空の旅客担当佐口香奈さん(29)は、震災直後から仙台空港に避難してきたお年寄りらの世話を続けた。古里の宮城県南三陸町は津波で壊滅。ようやく両親の無事を確認できたのは、震災から1週間後だった。「発着便数が増えていくように、被災した方々も一歩ずつ日常を取り戻すはず」。佐口さんは信じている。


まさに官民、そして国を超えた支援のおかげ。

自衛隊、アメリカ軍のおかげ。


その自衛隊・・

自衛隊奮闘 災害派遣「10万人態勢」1ヵ月半」・・河北新報


東日本大震災で自衛隊は、隊員のほぼ半数に上る「10万人態勢」を敷いて捜索や生活支援の活動に当たっている。災害派遣では過去に例のない規模だ。自衛隊にとって東北の重要拠点である陸上自衛隊多賀城駐屯地(多賀城市)は津波に襲われるなど被災。家族を亡くした隊員もいる。震災発生から1カ月半を迎え、規模縮小も検討される中、自衛隊員が被災地で奮闘している。(佐藤夏樹、水野良将)


◎駐屯地が被災/津波で隊舎浸水、車両は水没…/ボートで出動住民救う

 災害派遣の拠点となる多賀城市の陸上自衛隊多賀城駐屯地。仙台港に近く、砂押川に面した平地にある。
 3月11日午後2時46分。地震が発生した時、多賀城駐屯地には約800人の隊員がいた。約30分後に気仙沼市や石巻市に連絡要員を派遣。午後3時30分、出動に備え、同駐屯地所属の全隊員約1500人がそろった。午後3時42分、グラウンドに災害派遣の車両などの配備が完了した。
 「津波が来る!」との情報が流れ、午後3時57分、全隊員が各隊舎の屋上に避難した。大声で避難を呼び掛けた合瀬教弘3尉(44)は「若い隊員は、まさかここまで津波が襲ってくるとは思っていない様子だった」と振り返る。
 2分後、グラウンドに水が流れ込んだ。午後4時2分、水は勢いを増して正門を破壊し、隊舎1階が浸水。屋上にいた隊員たちはあぜんとし、言葉を失った。一斉に携帯電話で家族の安否を確認しようとするが、つながらない。
 1台の車が駐屯地内に流されてきた。「人がいるかもしれない」。隊員が叫ぶ。午後4時10分、津波の勢いが収まるのを待って、隊員5人がボートで車に向かった。中に人はいなかった。
 水に浮かぶ車から、防犯ブザーの音がむなしく鳴り響く。雪が降りしきる。屋上に避難した隊員たちの指先の感覚がなくなってきた。遠くに黒煙と炎が見える。「悪夢を見ているようだった」と合瀬さんは言う。
 午後5時31分。隊員たちはボートで多賀城市内の住民の救出に向かった。救出活動は夜通し続き、12日朝までに約700人を救助した。
 隊員たちがようやく家族と連絡が取れたのは、震災から4日後。同駐屯地の隊員の半数以上が宮城県出身という「郷土の部隊」だ。家族が被災した隊員も少なくなく、両親を亡くした隊員もいる。隊舎のほとんどが水に漬かり、配備していた車両は水没した。
 合瀬さんは「自分たちのことは後回し。住民を救うことを第一に考えるのが責務だ」とした上で、「家族を失った仲間が気丈に任務に当たっていると思うと、本当につらい」と語る。
 航空自衛隊松島基地(東松島市)も津波の濁流にのまれ、航空機とヘリコプター計28基が水に漬かった。がれきと泥がたまった滑走路は5日間で修復、3月17日に輸送機の第1便が到着した。


◎懸命の捜索/がれきの山、丁寧にかき分け/遺族感情に配慮し作業

 東日本大震災で多くの家が津波に流され、焼け焦げた小学校や車が残る石巻市門脇地区。同地区では、第44普通科連隊(福島市)が最も多い時は600人態勢で捜索に当たり、これまでに約600体の遺体を見つけた。がれきの山が連なる町に、あとどれだけの遺体が眠っているのか、隊員たちにも分からない。
 墓地の上に、流されてきた家の2階部分が乗り上げていた。「母と祖父が中にいるかもしれない」。今月20日、公務員佐々木美幸さん(37)=仙台市泉区=は、変わり果てた実家をじっと見つめていた。
 自衛隊員が重機で屋根や壁を慎重に取り壊した。隊員約20人が、不明者を傷つけないよう、がれきを一つ一つ丁寧にかき分ける。
 作業に当たる牧野桂治1尉(43)は「遺体の傷みも激しくなっている。傷つけないよう気を使う」と話す。家屋の解体に当たっては、できるだけ所有者の許可を得るよう心掛けているという。「そのため、作業に時間がかかっている」と説明する。
 「遺体が見つかったぞ」。捜索していた隊員の声に、辺りに緊張が走った。佐々木さんはゆっくり近づいた。遺体は男性で、かろうじて顔が判別できた。「違います」。祖父ではなかった。遺体はシートにくるまれ、安置所に運ばれた。
 この日、母と祖父は見つからなかった。でも、隊員が母の写真やアルバムを見つけてくれた。佐々木さんは「大事な思い出を取り戻してくれた。本当に感謝します」と語った。
 震災から1カ月以上が過ぎ、同地区では遺体はほとんど発見されなくなってきている。現場の隊員には「もう捜す所はほとんどない」との思いもにじむ。がれきと遺体に向き合うことで、疲れやストレスに悩まされる隊員もいるという。
 震災直後から捜索に当たっている下条拓也3曹(27)は、遺族の気持ちを思って自らを奮い立たせる。「遺体を見続けると精神的につらいし、いつまで続くか分からない任務は苦しい。でも、被災者の痛みはこんなものではない。音を上げるわけにはいかない」と、捜索活動を続ける。


◎全力で救助/石油コンビナート爆発炎上/冷静に200人誘導、輸送

 3月12日未明、多賀城市大代の小野屋ホテル。自宅が津波で被災した同市の会社員伏見正浩さん(38)は、4階建てのホテルの3階に避難していた。
 「ドカーン! ドカーン!」
 けたたましい爆発音が何度も鳴り響き、部屋の窓が震動した。恐る恐る外を見ると、南に約1キロ離れた石油コンビナートから炎が上がっていた。
 ホテルやコンビナートの近くには、砂押川が流れる。11日の大地震後、油を積んだタンクローリー5台が川を流されていった。伏見さんはその光景を、闇夜に浮かぶ赤い光を見ながら思い出した。
 「油が混ざった川に燃え移ったら、このホテルにも火が及ぶかもしれない」。死の恐怖さえ感じた時、自衛隊員約15人が救助に現れた。
 隊員は各部屋やトイレを回った後、避難者約200人に対し、落ち着いた口調で「爆発で危険なので、外に逃げてください」と指示した。
 道路は泥水にまみれ、砕けた瓦やブロック塀があちこちに散乱していた。隊員は携帯していたライトで地面を照らし、避難者を近くの歩道橋まで誘導。トラックや車で、陸上自衛隊多賀城駐屯地まで輸送した。
 駐屯地で数日を過ごした伏見さんは「隊員自身、家族や知人の安否が気掛かりだったはずなのに、気丈に振る舞っていた。冷静に、的確に避難させてくれたおかげで、パニックにならずに行動し、助かることができた」と深く感謝している。


◎これまでの活動実績/9100遺体収容/給水220トン/食事300万食提供/仮設風呂43ヵ所

 東日本大震災で、自衛隊が全国から派遣している人員は1日当たり約10万6000人に上る。自衛隊員約23万人弱のほぼ半数を投入する「10万人態勢」を3月19日から維持。阪神・淡路大震災の約4倍の規模だ。
 自衛隊員は今回、災害派遣としては初めて、陸海空による統合任務部隊を結成。今月28日現在で陸自約7万人、海自約1万4200人、空自約2万1000人、原子力部隊約450人と航空機490機、艦船53隻を投入している。これに米軍の支援が加わる。
 沿岸部での行方不明者の捜索は久慈市、岩手県岩泉町、野田村、田野畑村、岩沼市、宮城県亘理町などで終了。捜索を終了した部隊は、気仙沼市や石巻市、名取市などの捜索部隊に増員として参加している。
 避難所への物資輸送では、自治体への支援物資の窓口を自衛隊が担当。全国の駐屯地などで支援物資を受け取り、被災地への輸送を主導した。給水や炊き出し、避難所を回っての慰問演奏会、がれきの撤去、道路の整備など自衛隊の活動は多岐にわたる。
 25日現在で自衛隊が収容した遺体は9100人余り、給水は約220トン、提供した食事は約300万食。入浴支援では19日現在、43カ所に仮設風呂を設営した。
 自衛隊の災害派遣は本来、(1)公共性(2)緊急性(2)非代替性―の3原則を満たすのが条件で、任務は初動対応に限定している。実際、阪神・淡路大震災では発生12日で、岩手・宮城内陸地震では9日で行方不明者の捜索を終えている。
 今回の派遣は異例の長期となっているが、行方不明者の捜索は手付かずの地域が少なくなった上、民間でも代替可能な生活支援が増え、規模縮小が検討され始めた。


被災状況の多様化

被災地の広さ

ここまで復旧できたのは

本当に、自衛隊とアメリカ軍

そして、それぞれのプロの方々・・

まさに職人と言える担当者の方々のおかげです

本当にありがとうございます。


3・11

4.7

4・11

この一連のことを忘れちゃいけない。