不審なる「出家功徳御書」⑥

 

 

日蓮仏法に仇なす偽書(まとめ)

 


「出家功徳御書」は、日蓮大聖人の仏法に仇なす偽書ですが、この偽書作成の目的は、僧の還俗を阻むことにあったことは間違いありません。


「近日誰やらん承りて申し候は・内内還俗の心中・出来候由風聞候ひけるは・実事にてや候らん虚事にてや候らん・心元なく候間一筆啓せしめ候、凡父母の家を出でて僧となる事は必ず父母を助くる道にて候なり」(出家功徳御書)
通解:近頃、誰かが聞いて申すには、内々に還俗の心が生じているという風聞がありますが、本当の事でしょうか、それとも嘘事でしょうか。心配なので、それについて一筆書いた次第です。およそ、父母のいる生家を出て僧になることは、必ず父母を助ける道なのです。
 
と書き起こし、還俗を望む者に対し、肉親への情をからめ、それを阻もうとしており、趣旨は、同書において一貫しています。

 


「されば出家と成る事は我が身助かるのみならず親をも助け上無量の父母まで助かる功徳あり、されば人身をうくること難く人身をうけても出家と成ること尤も難し、然るに悪縁にあふて還俗の念起る事浅ましき次第なり金を捨てて石をとり薬を捨てて毒をとるが如し、我が身悪道に堕つるのみならず六親眷属をも悪道に引かん事不便の至極なり。
其の上在家の世を渡る辛労一方ならずやがて必ず後悔あるべし、只親のなされたる如く道をちがへず出家にてあるべし」(出家功徳御書)
通解:故に出家するという事は、我が身が助かるばかりでなく、自分の親をも助け、更にさかのぼって無量の父母まで救うという功徳があるのです。
故に人身を受けることは難しく、人身を受けても出家になる事は、もっとも難しい事なのです。それを悪縁にあって還俗の念が起こることは浅ましい事なのです。それは、ちょうど金を捨てて石をとり、薬を捨てて毒をとる様なものなのです。自分自身が悪道に堕ちるばかりでなく、親族全体までも悪道に引き込むことは、この上なく可哀想な事です。その上、在家の身として世を渡る心労は、一通りのものではなく、いま還俗してもやがて必ず後悔するに違いありません。だから親が為された様に、道を違えず出家でいるべきなのです。
 
この様に同書は、とことん骨肉の情にからめて還俗させまいとするのですが、この文中、「其の上在家の世を渡る辛労一方ならずやがて必ず後悔あるべし」とある事に、なにやら堕落した出家の本音を見る思いがします。この偽書の作者は、その程度なのです。

然し乍ら実際に、この「出家功徳御書」を偽書と退けることのできる出家者は少ないでしょう。

何故ならば、「出家功徳御書」は、在家者を出家者出家功徳御書が差別する「教義」的裏づけとなっており、出家している我が身に存在意義を与えているからなのです。
「出家功徳御書」は、世俗社会と出家社会の結界をなすものであり、この結界があるからこそ俗より俗の出家社会、ことごとくが差別構造をなしているエセ僧伽に生きる我が身が肯定されるのです。
この偽書以外に、世俗を蔑視し遠ざけ、宗門中枢を占める血族におもねり、僧階という差別の階段を昇ることを是とする「御書」はなかったのです。

処が、日蓮正宗の新編御書に「出家功徳御書」と同程度らしき「得受職人功徳法門抄(文永941551歳作らしい)」と云う御書が突然現れています。 (この御文も検証する必要があります)


僧道を歩む第一歩である得度式で、この偽書を「御書」と拝し、世俗社会に戻ることは五逆罪以上と教えられ、出家のみが尊いかの様に躾られているのです。
得度するにも、いろいろと年齢差がありますが、親から諭され、さしたる道念もない少年が、この「出家功徳御書」の様な偽書を「御書」と拝したときの影響の恐ろしさは、想像を超えるものがあります。

その上、宗門から一面的に「法主の直弟子」としての自覚を植えつけられると、短絡的に自分が優れている人間、人から敬われて当然、果ては人は敬うべき、と思う様になります。


得度すると俗名を捨て、「法主」から与えられた道号で呼ばれる様になります。 

宗門は、親に対しても「さん」づけで道号を呼ぶ事を命じています。
「法主の直弟子」としての自覚を親と子に持たせる為に必要な事であったかもしれません。

だが、子供たちは親すら威儀を正し、子供である自分を「さん」づけで呼ぶ姿を見て、出家は偉いのだと心底、思う様になるのです。
許されて親元に帰った所化の中に、両親に三つ指ついて挨拶させる者がいたり、食事の時、当然のごとく上座に座る者がいたりします。 

それで、両親が戸惑うかといえばそうではなく、僧道を歩む自覚ができたと喜ぶのだから、子供はますます増長するのです。

日興遺誡置文中にある、施をなす者におもねるな、との
「若輩為りと雖も高位の檀那自り末座に居る可からざる事」
は、決して恩ある父母に子供が非常識な振る舞いをする事を許容していない筈です。


また、大石寺の所化達は、始終、地元の村の子と同じではダメだと叱咤されているそうですが、それももっともな事ながら、所化達は地元の子供達とは身分が違うといった、はき違えた意識を持ち、その貴族意識を血肉化していくそうです。
なにしろ、所化達が身近に見る大人の世界、すなわち僧社会が徹底した差別によって成り立っているのだから、成長に伴い自然のうちに差別意識を培っていく事になり、同じ所化仲間でも、創価学会出身か、法華講出身か、寺族出身かによって差別が生じるのです。言うまでもなく、寺族出身が一番上とされ、その寺族出身でも、親父の僧階が上であれば、その子供は威張る力を得るのです。


更に、万事、法臘(出家してからの年数)が第一とされる宗門では、一日たりとも坊主を長くしていたものが上とされるのです。
従って、青年になって得度した大学卒の者を、少年得度(小学校六年生から得度した者。のち中学一年生からとなる)の者が馬鹿にしたり、お茶汲みに使ったりしているのです。
50歳で一般得度した者などは、あわれです。日常的にお茶汲みなどの下働きをさせられ、「社会でダメだから出家した」だの、「インスタント坊主」だのと年下の者から馬鹿にされているのです。
出家の世界は一事が万事、差別の世界です。

僧階が違えば、服装、法具、席次も違います。その差別の世界でうごめく僧侶達が、一つの目標とする僧階が権僧都なのです。
権僧都になれば、中啓も金銀黒骨となり、紋衣をまとう事ができます。

紋衣とは、自分の家の家紋を入れた衣のことを示し、坊主らはこの紋衣を着れるようになる日を一日千秋の思いで待っているのです。

出家して衣に家紋をつける馬鹿さ加減に、堕落した仏教の真骨頂を見る思いがします。
だが、差別社会で生きる当事者達は、そうは思わないのです。 紋衣を着たくて着たくて仕方がないのでしょう。 

第三者から見れば、大の大人がその様な思いで差別社会を生きているのかと思うと、実に情けない限りなのです。しかし、「僧侶達」は外に賢善を装い、この内心の愚かさを見事に隠しているのです。

出家者のこうした、全ての愚かな差別は、得度式で読まれる「出家功徳御書」にはじまり、同書によって肯定されるのです。
大僧正から沙弥に至る十七階級の僧階、その沙弥の下に位置する世俗社会、その差別のピラミッド構造は、偽書「出家功徳御書」によってこそ裏づけられているのです。
出家者で居れば「五逆罪の人よりも罪深く」「堕獄」となる世俗社会より遠ざかる為、差別の階段を昇り、ピラミッドの頂上部分を形成する血族にまとわりつく事が、同書により僧道に則った事とされ、父母の恩に報いる事とされるのです。
日蓮正宗における僧侶の多くは、この差別構造にからめとられ、この差別意識を血肉となし、世俗を卑しみ、僧階の低い者を蔑如し、法臘短き者を侮っているのです。


今や日興上人の御遺誡された、
「下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事」
「身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事」
という御文は、日蓮正宗において、完全に「死文」となってしまっているのです。

 

 

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