真実の宗門史を紹介します。


17世日精法主の謗法 1

 

 

 

 日蓮正宗の歴代御法主上人の中で、謗法を犯した人物として特記すべきは第十七世日精上人(16001683年)である。
 堀日亨上人は、次の様に記されている。
 「日精に至りては江戸に地盤を居へて末寺を増設し教勢を拡張するに乗じて遂に造仏読誦を始め全く当時の要山流たらしめたり但し本山には其弊を及ぼさざりしは衷心の真情か周囲の制裁か」(『富士宗学要集』第九巻69頁)
 京都・要法寺の出身の日精上人が、要法寺の宗風を本宗に持ち込んできた、しかし、本山大石寺において弊害は無かった(造仏など行われなかった)と書かれている(但し、戒壇の大御本尊様を御影堂に安置し、内拝の形式を廃するなどの過ちを犯している)。

 注目すべきは、大石寺に与えた要法寺の影響が思ったほど少なかった事について、「衷心の真情か周囲の制裁か」と書かれているところである。
 日精上人の著作に、『随宜論』という一巻がある。日精上人はこの『随宜論』において、仏像の造立と法華経の全てを読誦することの正当性を述べられており、『随宜論』の巻末は、次の様に締めくくられている。
 「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因つて門徒の真俗疑難を致す故、朦霧を散ぜんが為、廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」
 この巻末文によると、日精上人が法詔寺建立の翌年に仏像を造立したことで、「門徒の真俗疑難を致す」と記されていることから、造仏によって宗内が相当に騒然とした様子がわかる。それまで仏像を造り拝むなどということは謗法とされてきたのに、法主が行なったのだから大騒ぎになったのも無理のないことだ。 『富士宗学要集』に収録された資料等を総合すると、造仏を行なった寺院は確認されるだけで、「法詔寺」「常泉寺」「青柳寺」「妙経寺」「本成寺」「久成寺」「長安寺」「本源寺」「鏡台寺」「常在寺」「実成寺」等に及んでいる。また京都要法寺の本堂再興にあたっての釈迦像の安置に、日精上人自ら助力したことが記録に残されている。

 この日精上人が、宗内の造仏に反対する動きを封じるために著したのが先の『随宜論』だが、そこにはどの様な事が書かれていたか。代表的な箇所を紹介する。
 「造仏は即ち一箇の本尊なり、誰か之を作らざる。然るに今に至るまで造仏せざることは聖人の在世に仏像を安置せざるが故なり」
 日精上人は、造仏は(一箇の本尊であり)当然の事とし、これまで仏像を造らなかったのは、大聖人が安置されなかっただけとしている。本来造るべきものを、いわば習慣として造らないで来ただけだというのである。
 「権教(経)の意に約せば、造仏は悪趣に堕さざるの因、天上に生ずの縁なり。権経猶此の如し況んや実大乗の法華経は小善悉く成仏す、造像の大善は言論すべからず」
 日精上人は、権教においてすら仏像を造ることは悪趣に堕ちない原因(善因)となるのだから、実大乗の法華経では大善となることは言うまでもないと強弁している。全くの邪義である。
 「聖人御在世に仏像を安置せざることは未だ居処定まらざる故なり如何」
 文の通りである。日蓮大聖人が鎌倉、伊豆、佐渡、身延等、居処が定まらなかったことが、仏像を造立・安置されなかった理由であるとしている。
 この類いの出来事を御聖訓を引用し論じた後に、日精上人は「古より今に至るまで造仏は堕獄の因と称するは誤りの甚だしきなり」と結論付けている。
 後に第三十一世日因上人は、『随宜論』の巻末に筆を加えられ、「日因云、精師御所存ハ当家実義と大相違也」と、日精上人の考えは、富士大石寺の本当の教義と大きく違うとわざわざ但し書きをされ、邪義であることを断言されておられる。
 日精上人の用いた邪義邪説は、京都・要法寺の広蔵院日辰の影響をまともに受けたもので、この邪義の影響は、第二十二世日俊上人、第二十三世日啓上人などによって正されるまで続いた。最終的に要法寺の邪義を、根本より断ち切られたのは、第二十六世日寛上人であった。

 日精上人の様な狂える法主の出現に暗澹たる思いを禁じ得ない。唯一の光明は、日精上人の邪義に抵抗した僧俗の居たことが、当時の文献から窺えることである。即ち、日精上人自ら記している様に「門徒の真俗疑難を致す」との事実があったことである。



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