始皇帝【秦王嬴政~史実】 | 『キングダム』~史実で学ぶ~

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史実でみる【政】始皇帝への歩み

 

嬴(えい)政(せい)
始皇帝、または秦始皇と称される。
前247年、13歳で秦王となる。当時は、渭水盆地を支配する諸侯にすぎなかったが、灌漑事業(鄭国渠の開通など)を推進して国力を充実させていた。相国(総理大臣に当たる)の呂不韋の陰謀事件を乗り切った政は、軍備を増強するとともに、法家の思想家李斯を登用して法治国家の整備を行い、独裁権力を打ち立てた。前230年頃から他の6国の攻略に乗り出し、前221年までに最後のを滅ぼし、ほぼ現在の中国の国土に匹敵する地域に統一権力としての 朝を樹立した。
紀元前221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した。

 
生年 紀元前259年(正月1月?)
没年 紀元前210年9月10日(秋7月)


始皇帝とは?
周の時代より中国独立国では、「王」の称号が用いられていた。
紀元前221年に戦国時代に終止符を打ち事実上中国全土を統治する立場となった秦王政は
自らの権勢を強化するため、新しい称号「秦始皇帝」を設けた。
時に「始皇帝」と略される。
「始」は「最初(一番目)」の意味である。
始皇帝の後継者はその称号を一部受け継ぎ、世代が下がるごとに「二世皇帝」「三世皇帝」という称号を受ける。
「皇帝」は、神話的な三皇五帝より二つの漢字を抜き取って作られた。
漢字「皇」には「光輝く」「素晴らしい」という意味があり、また頻繁に「天」を指す形容語句としても用いられていた。
元々「帝」は「天帝」「上帝」のように天を統べる神の呼称だったが、やがて地上の君主を指す言葉へ変化した。
どの君主をも超えた存在として、この二文字を合わせた称号を用いた。

出生
秦の公子であった父・「子楚」が当時、休戦協定で人質として趙へ送られており、秦ではなく趙の首都・邯鄲で生まれたため「趙政」とも呼ばれていた。
父・子楚は公子とはいえ、20人以上の兄弟がいた妾腹であり、祖父・安国君は曽祖父の後継ですらなかった。
秦王を継ぐ可能性がほとんどない子楚は、昭襄王が協定をしばしば破って軍事攻撃を仕掛けていたことで、秦どころか趙でも立場が悪く、当然いつ殺されてもしかたがない身であり、人質としての価値が低かった趙では冷遇されていた。
そこで韓の裕福な商人であった呂不韋が目をつける。
安国君の正室ながら子を産んでいなかった華陽夫人に大金を投じて工作活動を行い、また子楚へも交際費を出資し評判を高めた。
子楚は呂不韋に感謝し、将来の厚遇を約束していた。
そのような折、呂不韋の妾 (趙姫)を気に入って譲り受けた子楚は、昭襄王48年(前259年)の正月に男児を授かった。
正月にちなみ「政」と名付けられる。

血筋に関する疑惑
漢時代に成立した『史記』「呂不韋列伝」には、政は子楚の実子ではなかったという部分がある。呂不韋が趙姫を子楚に与えた際にはすでに妊娠していたという。
後漢時代の班固も『漢書』にて始皇帝を「呂不韋の子」と書いている。

「呂不韋の子」と言う説は死後2000年経過して否定的な見方が提示されている。
呂不韋が父親とするならば、現代医学の観点からは、臨月の期間と政の生誕日との間に矛盾が生じるという。

生い立ち
政の祖父・安国君は亡くなった兄の代わりに太子となった。
だが曽祖父の昭襄王は子楚らに一切配慮せず趙を攻め、紀元前253年にはついに邯鄲を包囲した。
そのため人質として趙側に処刑されかけた子楚だったが、番人を買収して秦への脱出に成功した。しかし妻子を連れる暇などなかったため、政は母と置き去りにされる。
趙はこの二人を殺そうと探したが巧みに潜伏され見つけられなかった。
政の幼少期は常に死と隣り合わせだった。

即位
前250年に昭襄王が没し、1年の喪を経て安国君が孝文王として即位すると、呂不韋の工作どおり子楚が太子と成った。
そこで趙では国際信義上やむなく、10歳になった。政を母の趙姫と共に秦の咸陽に送り返した。
ところが孝文王はわずか在位3日で亡くなり、紀元前249年に「奇貨」子楚が荘襄王として即位すると、呂不韋は丞相に任命された。
荘襄王と呂不韋は周辺諸国との戦いを通じて秦を強勢なものとする。
紀元前246年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去した為、13歳の政が王位を継ぐ。
まだ若い政を補佐するため、呂不韋は相国となり戦国七雄の他の六国といまだ戦争状態にある秦の政治を執行した。
呂不韋は仲父と呼ばれるほどの権威を得るのであった。

中華統一
その後、相国となった呂不韋の陰謀事件を乗り切った政は、軍備を増強するとともに、法家の思想家李斯を登用して法治国家の整備を行い、独裁権力を打ち立てた。前230年頃から他の6国の攻略に乗り出し、前221年までに最後の斉を滅ぼし、ほぼ現在の中国の国土に匹敵する地域に統一権力としての秦王朝を樹立する

政治
始皇帝は周王朝時代から続いた古来の支配者観を根底から覆す。
独立国の体を廃止し、郡が置かれ、郡は「県」で区分され、さらに「郷」そして「里」と段階的に小さな行政単位が定めた。

統一後、臣下の中では従来の封建制を用いて王子らを諸国に封じて統治させる意見が主流だったが、これは古代中国で発生したような政治的混乱を招くと強硬に主張した李斯の意見が採し、過去の緩やかな同盟または連合を母体とする諸国関係は刷新された。伝統的な地域名は無くなり、例えば「楚」の国の人を「楚人」と呼ぶような区別はできなくなった。
人物登用も、家柄に基づかず能力を基準に考慮されるようになった。
それまでは各地でばらばらであった単位や貨幣、文字の統一を進め、中央集権国家を築き上げる。
始皇帝は各地の富豪12万戸を首都・咸陽に強制移住させ、地方に残る財力と武力を削ぐ目的で諸国の武器を集めて鎔かし十二金人を製造した。
咸陽城には滅ぼした国から鐘鼓や美人などが集められ、その度に宮殿は増築を繰り返した


万里の長城
中国は統一されたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではなかった。それは北方および北西の勢力を強めつつあった遊牧民であった。
始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせ、巨大な防衛壁建設に着手した。
何十万という人々が動員され、数多い死者を出し造られたこの壁は、現在の万里の長城の前身にあたる


暴君と呼ばれる奇行
体制批判の儒者を弾圧するために書物を焼き払う焚書」
学者達を生き埋めにする「坑儒」などを行い生涯に渡って中国全土を支配した。
強大な権力を手にした始皇帝は、晩年になると不老不死を求めるようになる。
徐福に東方にある蓬莱の国に赴き、不死の霊薬を入手するよう命じたり、邪悪な海神を射殺すとして大魚を弩で撃つなどのエピソードが有名となる。

天下巡遊
国を統一した翌年の紀元前220年に始皇帝は天下巡遊を始めた。
最初に訪れた隴西と北地はいずれも秦にとって重要な土地であり、これは祖霊に統一事業の報告という側面があったと考えられる。
しかし始皇28年(前219年)以降4度行われた巡遊は、皇帝の権威を誇示し、各地域の視察および祭祀の実施などを目的とした距離も期間も長いものとなった


最後の巡遊
末子の胡亥と左丞相の李斯を伴った第4回巡遊は東南へ向かった。
ところが、平原津で始皇帝は病気となり、症状は段々と深刻になった。
ついに蒙恬の監察役として北方にとどまっている正統な後継者である長子の扶蘇に「咸陽に戻って葬儀を主催せよ」との遺詔を作成し、信頼を置く宦官の趙高に託した。
7月、始皇帝は沙丘の平台(現在の河北省平郷)で亡くなった。
ある説によると、彼は宮殿の学者や医師らが処方した不死の効果を期待する水銀入りの薬を服用していたという。

隠された死
始皇帝の死が天下騒乱の引き金になることを李斯は恐れ、秘したまま一行は咸陽へ向う。
崩御を知る者は胡亥、李斯、趙高ら数名だけだった。死臭をごまかすため大量の魚を積んだ車が伴走し、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた帰路において、趙高は胡亥や李斯に甘言を弄し、謀略に引き込んだ。扶蘇に宛てた遺詔は握りつぶされ、蒙恬ともども死を賜る詔が偽造され送られた。この書を受けた扶蘇は自殺し、疑問を持った蒙恬は獄につながれた。
始皇帝の死から2か月後、咸陽に戻った20才の胡亥が即位し二世皇帝となり、始皇帝の遺体は驪山の陵に埋葬され、護る8000体もの兵馬俑が共に埋められた。

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