相場操縦 | きなこのブログ

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[1699]市場(マーケット)を権力者、政府が、管理、支配=相場操縦(そうばそうじゅう)することは出来ない。
http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

私の次の金融本、

『官製相場(かんせいそうば)の 暴落が始まる ー 相場操縦(そうばそうじゅう)しか脳がない 米、欧、日 経済』(祥伝社 刊) 

は、10月4日から全国の書店に並びます。都内の書店は1日から入るでしょう。

今度の本の中に載せようと思って、載せなかった一文が有ります。

それは、私が、今から17年前に書いた

『悪(あく)の経済学』(祥伝社 1998年5月刊) 

の 中の1節です。 

私にとって重要な文なので、以下に転載します。

(転載貼り付け始め)

● 権力者といえども市場を操(あやつ)ることはできない

私が、小室直樹(こむろなおき)先生から教えられたことで、あと重要なのは、

カルヴァンの

「神の予定調和(プレデスティネーション)」


「市場(マーケット)」


「疎外(エントフレムデゥング)」

は同じものだ、ということを大きく知ったことだ。

これに「構造(ストラクチュア)」という言葉(ターム)を追加してもよい。

ヨーロッパ近代政治思想の基本骨格と土台を為しているこれらの大きな文字(ビッグ・ワード)が全て同じものであり通底(つうてい)していることを小室先生から、ふと教えられた時の驚きは今でも忘れられない。

小室先生はヒントしか与えて下さらなかった。

私は「これらは全て同じものですか」と恐る恐る尋ねたら「そうだよ」とボソッと答えてくださった。

この時の私の驚きは神の啓示(レヴェレーション)を受けた時のキリスト教徒に似ている。
 
なぜ市場を特定の人間が支配(コントロール)してはならないのか。

いや、どうせ支配することはできないのか。

市場を支配しようとする者たちは必ず市場から復讐される。

「市場( market マーケット)という言葉を経済思想の中心に押し上げたのは、アダム・スミスである。

アダム・スミスは、「神の見えざる手 」 invisible hand of God インヴィジブル・ハンド・オブ・ゴッゴ という中核となる言葉で、「生産物は市場(﹅﹅)で、商品となる」ことを証明した。

市場を通すことで始めて生産物は商品となる。

公正な価格を付けるには、生産物は一度は必ず市場を通らなければならない。

このことは『諸国民の富』(国富論) ‘The Wealth  of the Nations, 1776’ 「ザ・ウエルス・オブ・ザ・ネイションズ」 に書かれている。 

アダム・スミスは、スコットランドのカルヴァン派である長老派(プレズビテリアン)プロテスタントの神学者である。

この前に、ジャン・カルヴァンが、「神の予定調和」(predestination プレデスティネーション )というキリスト教の本性(ネイチャア)を解明した宗教指導者である。

この「神の予定調和」という思想は、「ある人間が救済されるか否(いな)かは、予(あらかじ)め、神によって決定(プリデスティネート)されている」という思想である。

「神の予定調和」とは、怒った神(ゴッド)が、

「おまえが救済(きゅうさい、サルベイション)されるか否かは、予(あらかじ)め、神である私が決めるのである。すべては私が決める。神を条件(コンデション)づけるな。 神に命令するな。 神を試(ため)すな」

という旧約聖書のヨブ記のなかの言葉によって説明した。

プロテスタント運動が、ローマ・カトリック教会と5〇〇年間闘いつづけて負けなかったのは、カルヴァンがこの

“キリスト教の本性”である神の予定調和の思想を

『キリスト教神学(しんがく)綱要(こうよう)』 ‘Institutio Christianae Religionis 1536’ 「インスティチュティオ・クリスティアネ・レリジオニス」を書いて以来、堅持したからである。

そして、この「神の予定調和」とは、そのまま、アダム・スミスの説いた「神の見えざる手」である「市場」のことである。

「市場」とは、

「個々の人間の主観(しゅかん)や願望などによっては、絶対に動かすことのできないルール、掟(おきて)、法則が有り」、

それは「人間の外側にそびえたつもの」のことである。

たとえ、国王や独裁者や世界皇帝によっても変えることのできない、人類社会を貫(つらぬ)く鉄の法則である。

米や小麦の値段は、国王が下げろと命じても下がらない。

このアダム・スミスの「市場」と同じものを、ヘーゲル学派から習ってカール・マルクスは、エントフレムデゥング Entfremdung =「疎外」(そがい、外化)と呼んだ。

「疎外」とは、

「個々の人間の主観(しゅかん)や意思などによっては動かし得ないもの」

という意味である。

そして、「人間社会には社会を貫く冷酷な法則性がある」と言うことである。

だから、神の予定調和=市場=疎外(外化)なのである。

ところが、カール・マルクスの 初期(26歳のとき)の著作である『経済学・哲学草稿』(1844年)を、偏重(へんちょう)して持ち上げる者たちが後に出て、その一部である日本の左翼知識人たちは「主体性(しゅたいせい)マルクス主義」という後進国特有の理論を作った。

そしてこのマルクスの「疎外(そがい)」を「高度産業社会と資本主義の発達にともなう人間の非人間化」と考え、「外々(よそよそ)しく人間の外側に立つもの」とした。

そしてここから の 「本来の人間の主体的な回復」などと考えた。

これを「主体性マルクス主義」という。

この理解は、日本のほとんどの左翼知識人だけでなく左翼でない知識人たちまでも今も同様に理解されている。

それでは、この「疎外からの回復」を説く「主体性マルクス主義」は、北朝鮮の金日成(キム・イルソン)の「主体(チュチェ)思想」とどれほど違うのか、と問うと何も変わらない。

「人間の解放」を唱える東アジア型の劣等政治思想である。

マルクスの考えた「疎外」というのは、そのようなものではない。

さらに、八〇年代の日本の知識思想界までも席巻したのがフランスの「構造主義(ストラクチュアリズム)」という現代思想である。

ユマニスト(人文=じんぶん=学者)のミシェル・フーコーが代表した。

この構造主義の「構造」(structure  ストラクチュア)と言うのも、実は、「神の予定調和」と同じものである。

各国それぞれの婚姻や家族の規範のように「構造」は、人間たちの意思で変えることのできない、冷酷に社会を貫く法則性のことである。

変えることはできないし、かつ変わらない。

だから「構造」と言うのだ。

だから「構造改革」というのは奇怪な言葉である。

できもしないことをやろうとする愚かな考えだ。

「構造改革派」とかつて呼ばれた一九三〇年代のイタリア共産党(反ソビエト派)発祥の日本の改革派の思想だ。

「構造」を「改革」できると思いちがいし、「市場」を自分たちの意思で支配(コントロール)できると考えることは愚かなことである。

今も衰退を続けるアメリカ帝国が、日本にも厳しく命令して 神の予定調和=市場=疎外 への違反である 金融市場の統制(ファイナンシャル・マーケット・コントロール) を押しつけて、やらせている。

やがて崩れるだろう。

私はこれらのことを小室先生から教えて頂いたのである。

『悪の経済学』副島隆彦著(祥伝社、1998年刊)

(転載貼り付け終わり)

現在、日本とニューヨークの株式相場は、激しく500円、500ドルとかで、乱高下を繰り返しています。

この動きを、私は、じっと見つめてながら、今度の本を書きました。

(転載貼り付け始め)

◯「米国株、5日続落 ダウ173ドル安、米景気への不安 一時1万6000ドル下回る」
2014/10/16 日経新聞
 
10月15日の米株式市場で、ダウ工業株30種平均は5日続落した。

前日比173ドル74セント(1.1%)安の1万6141ドル74セントと、4月11日以来およそ半年ぶりの安値で終えた。

米景気の先行きへの不透明感から、米株式を売却する動きが加速。

ダウ平均は下げ幅を460ドル超に広げ、1万5855ドル12セントと取引時間中としては約8カ月ぶりに節目である1万6000ドルを下回る場面もあった。

朝方発表された9月の米小売売上高は前月比で0.3%減と市場予想よりも悪化した。

ニューヨーク連銀(れんぎん)が公表する景況感指数や9月の卸売物価指数(PPI)などの経済指標も軒並み市場予想を下回った。

世界的な景気減速懸念が強まるなか、底堅く推移するとみられる米経済に対しても不安感が強まり、米株式には売りが増えた。

(転載貼り付け終わり)