そんな時は、なんだか後ろめたい気分になると同時に、それ以上にワクワクした気持ちになってしまう。
これがとても不謹慎な気持ちだというのは十分にわかっている。なぜならこの時の私は「おかずがないから弁当を作らない」のではなく、自らの意思で弁当作りを放棄しているからである。冷蔵庫には作り置きされたおかずがあるのにも関わらずだ。
そんな弁当を作らない日の朝は、いつもよりも時間にゆとりができる。小鳥のさえずりを聞きながら、ソファでコーヒーを飲んだりもしている。この日の朝、私は限りなく優雅な気分になっている。
誤解して欲しくないのは、私は別にいつもイヤイヤ弁当を作っているわけではない。むしろ、昼休みに外食するとそれだけで時間が過ぎてしまうので、休み時間を有意義にするという意味でも、もちろん健康面を考えても、弁当を持参するべきだという意見に異論はない。
だが、弁当を持たない日の私は、心なしかいつもよりイキイキしているのだ。
実は今日がまさにその日で、出勤前にこれを書いているのだが、浮かれ具合が半端ではない。
「今日のランチは、何を食べてやろうか」
そう考えるだけで、満員電車も、午前中の仕事も、爽やかに乗り切れる気がするのだ。
人は、何か後ろめたいことをする時、悪いなと思う気持ちがありながらもウキウキしてしまうものだ。例えば子どもの頃、仲間たちと夜通し遊んだりすることや、修学旅行の夜に部屋を抜け出すことなどもそうだろう。
ただ、大人になればなるほど、後ろめたいことをするシチュエーションは減ってくるものだ。夜遅くまで遊んでも怒られはしないし、修学旅行なんてイベントは二度とやって来ない。
そんな中、私が唯一と言っていいほど後ろめたいシチュエーションというのが、弁当を作らないということなのだ。私は自らの手で、この後ろめたいシチュエーションを作り上げているのだ。
私はもしかしたら、この「弁当を作らない喜び」を得るために、毎日弁当を作っているのではないか、そんな気さえする。
何度も言おう。
私は今、浮かれている。
この感情に、なんて名前をつけようか。いつもそう考えてみるが、すぐに今日のお昼に食べるメニューの方が気になってしまって、そこで考えることをやめてしまう。
しかし、名前のつかないこの感情を、私はいつまでも大事にしたいと思っている。