493冊目 愛の続き/イアン・マキューアン | ヘタな読書も数撃ちゃ当る

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ある日突然ブンガクに目覚めた無学なオッサンが、古今東西、名作から駄作まで一心不乱に濫読し一丁前に書評を書き評価までしちゃっているブログです

「愛の続き」イアン・マキューアン著・・・★★★★☆

主人公のジョーは、恋人のクラリッサと出かけたピクニックで、気球事故に遭遇する。その場にたまたま居た何人かの男たちが救助に駆けつけた。乗組員は無事だったが、救助にあたった男のひとりが、死んでしまう。その事件後のある夜、1本の電話がジョーのもとにかかってくる。「あなたはぼくを愛している」と。声の主ジェッド・パリーもまた、あの事件現場で救助にあたった男たちのひとりだった。彼はジョーと出会ったことを単なる偶然と片付けられずに、「神の意思」と解釈するが、それ以降、パリーのジョーへのストーキングが始まる。クラリッサは一笑に附し、警察も取り合わない。だがパリーの一方的な愛は、次第に脅迫へとエスカレートし、ついには現実の暴力となって、ジョーやクラリッサに襲いかかる。


マキューアン、1997年9作目の作品。

この後の作品「アムステルダム」でイギリスブッカー賞を受賞しているが、訳者や読者の意見としてはこちらの方が評価が高い。


ストーリーは、気球の事故をきっかけに、主人公のジョー(無宗教的科学者)が宗教的ストーカー(ド・クレランボー症候群)の男につきまとわれるという、マキューアンらしい少しエグイ話である。(文庫版の表紙のように青空に浮かんだ気球に、人間がぶら下がっている事だけに興味を惹かれて読むような本では無いし、映画の題名「Jの悲劇」も似つかわしくない気がする)


彼の作品の特徴の1つに緻密かつ濃厚な文体が挙げられるが、本作品でもそれは遺憾なく発揮されている。

特に序盤の息つく暇もない途切れのない文章は圧巻。

文学的な抒情性と理数系的な緻密さが混合された様な文体で、最初の1~2ページを読めばこの本が、ただならぬ作品だと感じられる。


訳者によるあとがきによれば、マキューアンは遅筆だそうであるが、これだけの文章を書くにはどれだけの労力がいるだろうか。

もし、この文章をスラスラ書ける人間なら、練習もせずにピアノでモーッアルトを弾けるようなものだ。

普通の作家がいつもの通り書き流すようなちょっとした表現でも、彼は推敲に推敲を重ねているのだろうか。


そのような文体と共に、独創的で哲学的な表現力が更にこの作品に厚みを増している。(逆か?)


私の一番印象的だったくだりを抜粋する。

P182、主人公のジョーと恋人(内縁の妻)のクラリッサの仲がギクシャクし始めた頃のベットの中での描写


──ぼくらはもう十分間も沈黙のうちに横たわっていた。クラリッサは左を下にしており、彼女の鼓動が強弱のリズムとなってぼくの枕に伝わる気がした。それともぼく自身の鼓動なのだろうか。それは遅くて、確実にさらに遅くなりつつあった。この沈黙のうちに緊張はなかった。ぼくらは眼を見つめあい、ぼくらの視線は眼、唇、眼、とお互いの顔の造作に規則正しく向けられた。それは長くゆっくりした思いだしの作業のようで、ぼくらがしゃべらずに一分一分が過ぎてゆくごとに、ぼくらの関係は静かに修復されていった。愛の慣性力、二人で過ごした時間、週、年月の力は、単なる現在の状況よりも大きいはずだった。愛はみずから貯えられてゆくものではないか?ぼくらがいまもっとも避けるべきは、長々と説明したり聞いたりしようとする衝動ではないか。通俗心理学の流行のせいで、人は話し合いというものに期待をかけすぎていないだろうか。対立というものには、生命体と同じく自然な寿命があるのだ。対立を収めるこつは、それが自然に死ぬ時期を見きわめることだ。間違ったときに発せられた言葉はひとつひとつが対立を激化させる働きとなりうる。対立という生きものは有毒な形で生き返ることができ、新しく系統立てられたり、病的な「新しい見方」を与えられたりすることで激しく再生するのである。ぼくは手を動かし、クラリッサの腕に触れた指の力をかすかに増した。クラリッサの唇が分かれ、粘膜のはがれる肉感的な柔らかい音がした。お互いを見つめあって思いだすだけでいいのだ。愛しあい、あとは自然の治癒にまかせることだ。クラリッサの唇がぼくの名を形作ったが、声はなく、息の音さえなかった。ぼくはクラリッサの唇から目を離すことができなかった。実にみずみずしく、自然な色がなんともつややかに豊かだ。口紅が発明されたのは、女たちがこのような唇を少しでも真似られるようにだ。

「ジョー・・・・・」と、また唇が言った。ぼくらの問題をいま話し合ってはいけないもうひとつ理由は、パリーをぼくらのベッドに招き入ざるを得ないということだ。

「ジョー・・・・・」今度はクラリッサはぼくの名前を半ばすぼめた美しい唇から出し、それから顔をしかめて大きく息を吸い、声にいつもの豊かな低音を与えた。「ジョー、もう終わったよ。それは認めたほうがいいわ。私たち終わったのよ、そう思わない?」──


こうして、改めて文章をタイプしてみると意外なほど漢字が少ない事に気づいた。

この辺は、難解な論理とバランスがとられていて訳者の巧みさが感じられる。


この2作後の作品「贖罪」も素晴らしい作品で私は最高の評価をしたが、この作品もマキューアンらしい文体や表現だけでなく、ストーカーの精神医学や科学などディレッタントぶりを充分に発揮した見事な作品であった。


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