平成28年7月9日(土)14:00~、みどりアートパークにて。

台本・演出/立山ひろみ
作曲・音楽監督/萩京子
美術/加藤ちか
衣裳/太田雅公
照明/齋藤茂男
振付/向雲太郎
小道具製作/福田アキヲ
舞台監督/森下紀彦

キャスト/
大石哲史 岡原真弓 佐藤敏之 富山直人 髙野うるお 彦坂仁美 太田まり 島田大翼 北野雄一郎 川中裕子 佐山陽規

打楽器/石崎陽子
サクソフォン/林田和之
ピアノ/服部真理子

~えいさらえい えいさらえい 引けよ、引けよ、子どもども ものに狂うてみせようぞ~

古今東西かずかずのものがたりを日本語オペラで上演してきたこんにゃく座が、説教節「小栗判官照手姫」にのぞむ!

女に化身する大蛇、人を食らう馬、閻魔大王に藤沢上人。破天荒な登場人物が、美男おぐりと美女てるてをとりまく。ユーモアと残酷が行き交う奇想天外オペラ! 

ものがたり/
大蛇の化身に恋をして都を追われた小栗は、数奇な運命の糸にあやつられ、常陸の国で、照手と出会い結ばれる。しかし、それを知った照手の父に殺され、地獄へ落ちる。照手も父の手によって殺されかけるが先々で出会う人に助けられ、女郎宿へと流れ着く。
小栗の旅は、京都、常陸、相模、黄泉の国へ。そして、閻魔大王のはからいで、しゃべることも、見ることも、聞くこともできない餓鬼阿弥とされ、ふたたびこの世へと復活させられ、人々と照手の手により熊野へと引かれていく。
小栗と照手の恋のゆくえは、いかに?
(公式サイトより)

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冒頭。

いくさやいさかい、日々の暮らしに苦しむ人々の場面から物語は始まる。

ある日、そういう人々のもとに、説教節の語り手がやって来る。人々は声をあげて歓迎する。泣かせてくれ、笑わせてくれ。日々の暮らしの苦しみを忘れさせてくれ、と。

そうして語り始めたのは、神になったひとりの男の物語だった……。

説教節の「おぐり判官」で描かれる小栗判官の物語を、日本語のオペラとしてよみがえらせた舞台。神の申し子である若者の、大蛇との逢瀬や照手姫との出逢い、地獄からの復活など、波乱万丈の物語だ。

波乱万丈で荒唐無稽な物語だからこそ、話を聴きに集まった人々の興味をそそる。説教節の語り手は、場面ごとに変わっていく。1つの場所で語られたのでなく、多くの村や町で、さまざまな語り手が語った物語であると示すように。

照手姫を娶ったことで姫の一族の怒りを買い、殺されてしまう小栗。しかし、閻魔大王の裁きにより、見ることも話すことも出来ない、見た目も変わり果てた姿の餓鬼阿弥として現世に蘇り、熊野の湯に入れば元の姿を取り戻すことができることとされる。

餓鬼阿弥を託された上人は、彼の首に札をかけ、車に乗せる。

人々が功徳を積むためにその車を引くのだけれど、ある土地では誰も車を引くものがなく、数日車は放置されたままとなっていた。

それを見かけた照手が、それが小栗だと知らぬまま、矢も立てもたまらず車を引こうとする。照手自身も数奇な運命に流され、女郎屋の下働きとして暮らしていたため、主人夫婦に無理に頼み込んでの行動だ。

見ず知らずの(とそのときは思っていた)弱い者に、手を貸したいという彼女の衝動、そしてそのために物狂いを装い、うつけのふりをしながらの数日。

その場面がこの舞台の白眉だと感じたのは、私ばかりではあるまい。

停まったままだった車が動き出す。最初は照手の手によって。そして次々に人々が集まり、入れ替わりながら、車は進んでいく。

「えいさらえい えいさらえい」と繰り返されるその声のチカラ強さ、そして切実さ。

車を引き続けていく人々の姿が、冒頭でいくさに傷つき、貧しさにあえいでいた民衆と重なる。それは、客席にいた私自身が、(小栗でも照手でもなく)そういう人々の上に自分を投影していたからかもしれない。

権力とも富とも無縁の弱い者たちが、それでもより弱い者に手を差し伸べる。打算ではない。哀れみや気まぐれと呼ぶには真摯過ぎる。その「えいさらえい」という呼び声が、いつまでも胸に残った。

ラストはまた人々の歌声で終わる。その中で、神の申し子として生まれ最後には神として祀られた小栗を「偉大な俗物」と呼ぶ。

これは英雄譚ではなく、ありふれた暮らしを生きる人々の中の尊い何かを描いた物語なのかもしれない。

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小栗判官を演じた島田大翼さんと照手姫を演じた太田まりさん。

島田さんの演じる小栗の、毘沙門天の申し子で見目麗しく文武に長けた様子と、無力で哀れな餓鬼阿弥のギャップが印象的だった。

餓鬼阿弥の車を引こうとするときの照手が、裾をからげ顔を汚し烏帽子をかぶって物狂いを装っいながら崇高なくらいに美しく、太田さんのまっすぐなまなざしの強さに客席で撃ち抜かれたような気がした。

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こんにゃく座の舞台を何作か拝見すると(この作品がそうであったように)「物語についての物語」が多いように思われる。

彼らは旅をする。そして彼らが行った場所が(たとえば学校の講堂や町の公民館など)オペラハウスになる。

そういう劇団のあり方と、彼らが描き続けている「物語についての物語」が、私の中で響き合うような気がした。