ご機嫌いかがでしょうか?
心理コンサルティングオフィス ふくよしです。
物事の現象を解明するには、科学的な思考は役に立ちます。
しかし、人間の問題について、考える時、科学的な思考はむしろ邪魔になるケースがあります。
科学的な思考とは、原因と結果、全体を要素に分解して観察、考察する方法を基にしています。
たとえば、惑星は、太陽の周りをなぜ?公転しているのか?について考える時、
惑星は太陽の周りを周りたいと思っているからとは考えません。
まして、神様がそのように創造されたのです。という回答をされても返事に困るのです。
科学的思考は、物事の現象を考える時に万能だったため、人間のなぜ?についても当てはめて考える悪い習慣があるのです。
科学の功罪です。
(人間に関することについて使う場合)この方法を使って、作られている分析ツールでは、まず間違った答えを導き出しすと考えていいでしょう。
人間の全体を見ずに、要素に分解し観察した時に、多くの不適切なものを認めざる得なくなります。
原因というものです。
たとえば、行動を阻害する”心のブレーキ”とやらが存在することを認めないといけなくなります。
私は、それをしたいのでが、私が私を邪魔するのです。
という現象を認めなければならなくなります。
たとえば、
自動車について、自動車全体で捉え思考した時、車を安全に走行させるためには、走ると止まるのバランスが重要です。つまり、スムーズに走るには、速度を緩めたり、加速したり、時には止まることも必要なのです。
だから、ブレーキは、アクセルと同じ役目であることが理解できます。
しかし、自動車を部分として、要素に分解して観察をすれば、ブレーキは車を止めるものであり、アクセルの反対の機能であるように理解するでしょう。
思考は思考でも思考違いなのです。
人間の問題には、心理的な思考が必要なのです。
ニーチェがこんなことを言っています。
『我々は絶対に原因を経験することはない。心理学的に考えるなら、原因という考え全体が、言ってみれば、我々が手が動くことの原因であるという主観的確信から引き出されている。
しかし、これは誤りである。我々は行為者である自分自身を、その行為から切り離しており、こうしたパターンをいたるところで用いている』
私が悪いのではない、親のしつけ(原因)で、私はこんな人間(結果)になったのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
心理学教育の必要性と心理学的思考法を広める活動をしています。
よろしくお願いします。