気づきであってみる | 悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

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悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

 

気づきは、「何か」 特別なものでも、何らかの 「状態」 でもありません、、

 

ただ私たちの自然さそのもの、本来的空っぽさ、全くもってこのままの広がり、、

 

などと言うこともできるかもしれません、、

 

 

ですから、何か今とは違った 「状態」 に近付こうとするのではなく、

 

そうした、どこかへ向かおうとする探求志向の動きや努力を手放し、、

 

 

在ることのみに留まり、ただ気づいてみればいいのです、、

 

もっと正確なポインターがあるとすれば、気づきであってみれば良いのです、、

 

 

というわけで、昨日の流れから、、

 

個人は (どこかへの) 探求、、気づきは今ここ、、とも言えるでしょう、、

 

 

込み入った努力をやめて、何の努力もなしに起こっていること-------

 

聴くこと、見ること、感じること、呼吸、気づくこと、あること-------の中にくつろぐと、

 

自分がすでにこの <ここ・今> の全体的で分離のない出来事として

 

今ここにいるということに気がつきます。

 

つまり、これを手にしよう、これをしよう、これと同一化しようとする代わりに、

 

ただこれであってみればいいのです。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

 

気づきの瞑想という観点から言うならば、

 

目をつぶって、背筋を伸ばし、力を抜いてその場に坐り、鼻呼吸を感じながら、、

 

気づきに寄り添うということがまずは基本になります、、

 

 

ゆっくりとした自然の呼吸に委ねながら、聞こえてくる音に気づいてみます、、(▰˘◡˘▰)

 

それが何の音であるかという 「名前」 は付けないでください、、

 

「これは〇〇だ」 と決め付けた時点で思考 (の判断) に囚われてしまう可能性があるからです、、

 

ま、そうした思考にも気づくことができたのであれば、ただそれが流れていくままにしてみましょう、、オバケ

 

ポイントは思考を信じてしまうのではなく、、気づきに明け渡すことです、、

 

 

また、気づき続けることは、手放し続けることでもあります、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

ですから、先日の記事に書いた通り、、こうしたことを数分続けるだけで、

 

肉体的も精神的も軽さがもたらされ、癒しやリセットという現象が起きるとも言えますし、

 

 

気づきの中で、エネルギーの詰まり、滞り、重々しさは静まり、、

 

軽さから来るスムーズな流れが起き始めて来るとも言えるのです、、虹

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ