悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟り、覚醒、ワンネス、いまここ、真我、瞑想、禅や神道についてなど、精神的な学びや気付きをつづっています^^
「ハリー的☆一隅を照らす☆」をモットーに☆
旧ブログ名:いまここに在る、私と神様♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

NEW !
テーマ:

 

 

さて、苦しみを受け入れそれと共にあることと、

 

苦しみから脱し何としてもそれを克服しようとする努力が起きているとき、、

 

 

さて、前者と後者、、どちらが本当の 「苦しみ」 だと言えるでしょうか、、

 

 

もちろん、私たちは、、(自然な流れがそうさせるのであれば)

 

雨が降れば傘を差し、傷口から血が流れているのであれば手当をし、

 

タイヤがパンクしたのであればそれを修理するということもあるでしょう、、

 

 

けれども、それが 「苦しみ」 になるのは、、

 

そうしたあるがままの状況を否定し、それらを 「不幸」 だと決め付け、

 

同時に、その 「不幸」 を経験している 「私」 というストーリー上の自分像をこしらえ、

 

その 「私」 があらゆる努力と実践、探求の末に、、「今の状況」 から抜け出し、

 

ここではない、いつか、どこにかにあるゴールや幸せに近づかなければ、、といった、

 

(あるがままへの) 抵抗と摩擦が加速しているとき、とも言えるかもしれません、、

 

 

 

 

人間の苦しみの大部分は、苦しみから脱しなければいけないという

 

必要と努力だということを発見するかもしれません。

 

そして、驚いたことに、最大の救済は

 

どんな救済もまったく必要としないところにあるのだと気づくかもしれません。

 

・・・・・・

 

苦しみを終わらせる最善の方法は、苦しみを完全に受け入れることです。

 

もし苦しみが続いたとしたら、関心を持ち、じっくりと眺め、

 

それがどう展開するかを見て、それを構成しているのは何か、

 

何で作られているか (思考、感覚、ストーリー、活動) を見て、

 

そうしたものすべてが本当にあるのかどうか、それをしている人がどこかにいるのかどうかを見て、

 

まさに今この瞬間、苦しむかどうかは選択可能なことなのかを調べます。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

「苦しみ」 が起きているとき、、その 「苦しみ」 から逃れようとせず、

 

その 「苦しみ」 と一緒にいてあげましょう、、

 

「苦しみ」 に寄り添い、「苦しみ」 に気づき、「苦しみ」 を静かに感じてみてください、、

 

 

もしかしたら、「苦しみ」 にとって一番苦しいのは、

 

自らを無視され、否定され、一緒にいたくないと言われ一人にされることかもしれません、、

 

「苦しみ」 と共にあるとき、、私たちはきっと 「苦しみ」 だって友にすることができるはずです、、

 

 

そしてその時、「苦しみ」 に何が起きるか、、生の奇跡はどこにも行かない 「今ここ」 で起きます、、

 

 

 

 

というわけで、こちらのモン(↑)、、来月、大雪の奥会津に降臨しまっす!!。+.。ヽ(*>∀<*)ノ。.+。

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

探そうとしなければ、そこがゴール、、

 

どこかに行こうとしなければ、すでに辿り着いている、、

 

何かになろうとしなければ、あなたはあなたでいい、、

 

 

というわけで、一般的な価値観からすれば、

 

見つけたい 「答え」 を明らかにするためには、「答え」 に向けた探求が必要になります、、

 

 

「答え」 はどこにあるのかと求め、

 

どうすればそこに辿り着けるのかと考え、

 

それは一体どんなものなのかと想像し、、

 

答えに向けた経路を様々思い描きながら試行錯誤を繰り返す、、

 

 

ですが、それがもし、一度も隠されていない明白なものを 「見つける」 ためだとしたら、

 

このやり方では、いつまで経ってもそこには辿り着けない可能性が (傾向として) 高まったりするのも確かです、、

 

 

つまり、すでに在るもの 「探す」 こと自体が、程度の差こそあれ、そこから 「離れる」 ことを意味し、

 

「見つけよう」 とするその貪欲さが、今ここに在る 「答え」 見過ごすことに繋がるとも言えるからです、、

 

 

となれば、探そうとするその動き、

 

今いる場所から離れようとするその反射的なパターン意識的になればなるほど、(ΦωΦ)

 

「答え」 それ自体の香りがすぐそばに感じられることに徐々に気づき始めることもあるかもしれません、、

 

 

 

 

 

「ゾーンに入る」 とか 「今にいる」 というのは

 

欠けている何かを手に入れることではなく、むしろ、邪魔しているように見えるものを見抜き、

 

思考のつかもうとする動きや探し求めようとする動きをくつろがせ、

 

生そのものである努力のない流れに明け渡すということです。

 

・・・・・・

 

「ゾーン」 も 「今」 も実際には常にここにある存在の根拠であって、

 

特別な何か、今ここになくて獲得しなければならない何かではありません。

 

・・・・・・

 

気づきがあると、「これは違う」 と主張する思考、

 

「ゾーン」 とは別の何かとして存在している 「私」 を前提としている思考、

 

今ここ以外のどこかに行かなくてはいけない誰か、そうしたものをただ見抜き始めます。

 

 

同時に、追い求めてつかもうとすることの窮屈さと苦痛を感じます。

 

自分がどのようにしがみつこうとしているのかに気がつくようになると、

 

くつろいで開くという可能性や、躍起にならず、抵抗せず、

 

ただくつろぐ可能性を見出し始めます。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

探すのを止め、くつろぐことに明け渡し、、

 

とらえようと微妙にうずき出す思考のダンスにも意識的に在り、、ただ留まるとき、、

 

公然の秘密が明かされたりするかもしれません、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

さて、寒さが増してくると、面白いことに、雪

 

自我性が鋭くなっているように感じます、、(ΦωΦ)

 

 

やはり、肉体があるというのが一番の要因かとも思いつつ、

 

この身を守ろう、維持しよう、安全に保とうとするがため、

 

「恐れ」 というエネルギーを原料にして、

 

「自分」 にとっての 「都合」 に偏った方向に事を運ぼう、選ぼう、留まろうとするのでしょう、、

 

 

そうした時こそ、そうした 「恐れ」 や 「都合」 を手放し、

 

流れにとって必要なことへと一歩を踏み出せる上で気づきの力が発揮されるときです、、

 

 

自分が何か (都合や言い訳、気を紛らわしてくれそうなもの) にしがみつこうとしていることに気づいたら、、

 

それをまずは静かに感じ、そして優しく見守ってみてください、、

 

 

そうした 「現象に対する抵抗」 を、批判したり、罰したりする必要もなければ、

 

あるいは、そのできあがろうとする結び目を何とかほどき、力んで動こうとする必要もなく、、

 

まずは、その気づきの愛でその 「恐れ」 と 「都合」 を照らし観るのです、、星

 

 

 

 

目覚めるということには、どんなときに自分が落胆し、心を閉ざすか、

 

そしてまやかしの慰めをどのようなところに求め出すかといった点に敏感になるという要素もあります。

 

目覚めるとは、自分を批判する傾向に気づき、失敗を個人のものとして受け取る傾向に気づき、

 

絶望や自己憐憫や憂鬱や欲求不満や怒り、

 

そして自分は何事もきちんとできない失敗者だというストーリーを信じるときに生まれる

 

様々な感覚にはまり込みがちな傾向に気づくようになることです。

 

こうしたことをすべて見るだけで十分です。気づきはそれ自体が作用です。

 

・・・・・・・

 

生じることが何であれ、そこから逃げようとすることなく

 

ただそれとともにあるとき、いつもであれば自分を駄目にしそうに思えたり、

 

こんなことがもし続いたら生きていけないと感じるような不快な経験、

 

あるいは恐ろしい経験------痛み、窮屈さ、不安、憂鬱、怒り、悲しみ、恐怖------

 

を受け入れることができるということを学びます。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

AD
いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

さて、一般的に言われるところの、「瞑想」 はけっこう好きな方ですが、、

 

瞑想について、まず押さえておかなければならない、大大大前提は、、

 

 

瞑想は、、どこにも行かないこと、、ということです、、

 

 

よく、瞑想することで悟りに至れるとか、

 

瞑想によって未知の次元にアクセスできるとか、

 

神秘的な体験をしてこそ真の瞑想だ、、

 

 

などと言うようなことを耳にしたりもするのですが、

 

これについては、大きな誤解であると言わざるを得ないでしょう、、

 

---------------------------------------------------------------------------------

 

というのも、、私たちの奔走探求といった個体感覚の、いわば 「癖」 であるところのものを、

 

和らげ、本来的な地平 (今ここ) に戻す、くつろがせることが瞑想の意義であるにも関わらず、

 

 

瞑想によって、どこか崇高な境地に至れるなどという考えに囚われてしまっているとしたら、

 

それは、まさに、今ここ外しの 「迷走」 とも言える様相です、、

 

 

瞑想中、、体感的に何ら神秘性を感じなかったり、

 

話に聞くところの、あるいは、以前にしたことがある超越的な体験をできなかったり、

 

瞑想を続けても日常、あるいは自分が変わり映えしない姿に 「見えたり」 すると、、

 

 

瞑想を 「求める」 ようになります、、

 

もっと瞑想し、今より崇高で、神秘的な次元に近付き、

 

さらなる超越性を体現した 「自分」 にならなければならない、、と、、

 

 

 

本来の自然さ、今ここという開かれた単純さへの帰還であるはずの取り組みが、

 

まさに、その本質を外して、迷走し続ける方向へ 「動いている」 というわけです、、

 

 

初めに言ったように、、

 

瞑想は、どこにも行かないことです、、

 

「どこか」 に行く瞑想は、迷走です、、これでは、ゴールへは遠回りが続く一方です、、

 

 

なぜなら、、ゴールとは、、一歩も動かない、今ここ、、に他ならず、、

 

ここを外しての求道は、どんなものでも思考によるまやかし (ストーリー) です、、

 

 

 

 

というわけで、、もう一言付け加えるならば、、

 

真の瞑想は、、今ここで在ること、、あるいは、、今ここそのものです、、

 

そして、究極的には、、私たちの在るという本性が、、瞑想であると言えるでしょう、、

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

というわけで、

 

私たちはゴールが 「どこか」 他のところにあると、「思っている」 がため、

 

目の前に現れているものをなかなか受け入れられず、

 

 

絶えず、「どこか」 へと辿り着くための奔走を続けてしまいがちです、、

 

ですが、目の前のこれが、「このように現れている」 ことから離れようとせず、、

 

 

より良い何かを期待したりもせず、

 

思い描いた理想により近付くことでゴールに辿り着くはずだなどとも思わずに、

 

ただ、これがこれであることを受け入れみるとき、、

 

 

今のこれが別段、「ゴールではない途中の地点」 であるなどと思ったりもせず、、

 

これと理想を比べたりもせず、、自分と誰かを比べたりもしないとき、、

 

 

どこかに行こうとしなければ、、まさにそこに、、ゴールが現れることでしょう、、

 

 

ずっと探し求めていた、、近付くことで辿り着くものだとばかり思っていたゴールが、、

 

実は、目の前、、いつもここにあったことを発見するのです、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

 

 

相対の世界は、絶えず、「恐れ」 「都合」 が駆り立てられるため、、

 

このシンプルな立ち位置をいともたやすく見失ってしまいます、、

 

 

それでも福音は、、私たちは、いつでもそこに還ることができるということです、、

 

 

これで良いんだと言える勇気、、その時、「今」 が開かれます、、

 

それが宇宙の真実です、、

 

 

 

 

苦しみが生じると、その見かけ上の問題について考えるというかたちで

 

私たちは習慣的に反応します--------

 

起こったことについて繰り返し考え、名前を付け、

 

それについてのストーリーを作り、分析し、誰かの責任にし、批判し、

 

未来の肯定的なシナリオと否定的なシナリオを想像し、解決策を探します。

 

 

「こんなのは耐えられない。もっとひどくなったらどうしよう。

 

 もう駄目になりそう。なんでこんなことが私に起こるの?

 

 私にあんなことをするなんて信じられない。不公平よ。私は本当にばかだわ。

 

 なにひとつまともにできないんだから。もしああだったらどうなんだろう? 

 

 あれさえこうだったら・・・・・・、たぶん私がすべきなのは・・・・・・」 と。

 

 

こうした思考のすべてに、風や雨の音を聴くときと同じように、

 

個人とは関係のない自然の出来事として耳を傾けることはできるでしょうか?

 

思考を手放し、注意をストーリーから今この瞬間のそのままの現実--------

 

身体の感覚、車が行き交う音、今ここにいるという感覚--------に戻すことはできるでしょうか?

 

 

想念とは関係のないエネルギーとしての今この瞬間の裸の現実がただあるとき、

 

苦しみに何が起こるでしょうか?自分の人生というストーリー全体が

 

見かけほど確かなものではないこと、思考と想像がなければ苦しみも不幸も

 

維持できないということを発見するかもしれません。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

というわけで、「これではいけない」 と 「思っている」 その思考がなかったら、、

 

「これで良くない」 なんてことがこの世に存在できるんでしょうか、、(ΦωΦ)

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

ゴールへ向かおうとする人生、、

 

何かを達成することがゴールだとする人生、、

 

たくさんの努力を重ね、一つ一つ障害を乗り越えて辿り着けるはずの 「どこか」 のゴール、、

 

 

こうしたランニングマシーンに乗ったまま人生を終えていく人は

 

かなりの割合を占めることでしょう、、

 

 

ですがおそらく、そうしたことに人生を捧げた人たちの誰もが、

 

この現象の世界を去る際に気づくのは、、

 

 

全くもってシンプルな、このこと、、

 

自分はどこにも行ってはいなかった、、何にもなっていなかった、、

 

 

成功した人生、失敗だと感じる人生、、そのどれもが臨終の際、、

 

初めからそれであったところの祝福に包まれ、、

 

 

私はずっとこれであった、、ずっとここにいた、、という深い感得に還ることでしょう、、

 

 

一休禅師のこんな歌もあり、、('◇')ゞ

 

死にはせぬ どこにも行かぬ ここにいる

 

尋ねはするな ものは云わぬぞ

 

 

 

 

というわけで、、どんな人生もこの、ゴールであるところのシンプルさから

 

切り離されることはないわけなのですが、、

 

 

できることなら、この現象の世界にいる間に、

 

自分は確かにゴールにいて、どこかに行く必要も、何かになる必要もないという

 

真正な安堵を友としたいものです、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

 

それには、ここ数日書いてきた、

 

気づきと共にある、気づきである時間を持ってみることがまずは大切かもしれませんね、、

 

 

今あるということの生き生きとした性質、

 

あるということの広がりと直接性、

 

それだけが私たちのもっとも奥深くからの切望を満たしてくれます。

 

それだけが現実だからです。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

※今シーズン一番の大雪中でっす!雪

 

今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

というわけで、求道における 「答え」 というのは、

 

何か外側の対象、包み隠されたものを解き明かすといった、

 

いわゆる一般的なニュアンスとは少し、、というかだいぶ違います、、

 

 

というのも、その 「答え」 というものは、、

 

探す必要を手放したときに現れる、この世界のごくごく自然な姿であって、

 

疑いの余地のない、まったくシンプルな明白さであるからです、、

 

---------------------------------------------------------------------------------

 

というわけで、このシンプルさに目覚めるためには、

 

探求志向の 「どこか」 へと求める方向に意識が魅了されてしまっていると、

 

逆にそれが見えなくなり、混迷の様相が深まってしまうというのはよくある話です、、

 

 

ですから、先日から書いている通り、、

 

どこにも行かない、気づきで在るという体感を通して、

 

答えで在るところのコツを自らの中で見出すことは実は大切なことかもしれません、、

 

 

日常の中の一呼吸に、気づきの瞑想のような 「静中の工夫」 を行うのも良し、

 

 

一方では、動きの中で、目の前の出来事を避け、その場から離れようとする、

 

微妙にして執拗な、自我の都合 (防衛反応) に気づいたとしたら、、(ΦωΦ)

 

この上ない、「動中の工夫」 の実践の場となることでしょう、、

 

つまるところが、禅的、、ただひたすらに行じる、、その場に根差す、深まる、、です、、神社

 

 

白隠禅師は、静中の工夫よりも、動中の工夫を重んじたとされていますが、、

 

個人的には、これらを両輪として 「求めない」 を徹底することはとても効果的だと感じます、、

 

つまりは、動かずの気づきは、ベースを整え耕してくれると思う一方で、

 

動きの中での気づきは、定着に向けたよりエネルギッシュでパワフルな育成、、

 

 

ま、素振りと実践練習、、のような関係性ってところで、、('◇')ゞ

 

 

 

 

白隠禅師は言います、、この時何をか求むべき、、

 

さぁ、求めないでいてごらん、、求めなければ現れる、、

 

「答え」 とは、「あなた」 の別名だ、、動かずの本性をしかと見なさい、、

 

直指人心 (じきしにんしん) !!(。+・`ω・´)キリッ

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

私たちは、、というか、この現象の世界は、

 

人生は、「どこか」 へ向かっているはずだ、、

 

自分はきっと、「何か」 になれるはずだ、なるべきだ、、

 

 

といった根強い観念にとらわれているように思います、、

 

 

見かけの上では、私も早10年ほど前あたりから、

 

人生の意味、答えを求める旅に出たように思います、、

 

 

多くの本を読み漁り、良しとされていることを実践してみては検証し、

 

有名な人の話を録音を取り寄せたり、直接聞きに行ったりと、

 

学び続け、「探し」 続けてきました、、

 

 

そしてあるときから、探すのを止めました、、同時に、求道の旅も終わりました、、

 

 

真実は 「何か」 でもなく、「どこか」 にあるものでもないと分かったからです、、

 

答えを解き明かそうとするまさにその奔走と探求が、迷妄の様相を形作っていたことも知りました、、

 

 

そして、答えは、いつも明白だったということ、

 

探そうとしなければ、どこかに行こうとしなければ、

 

いつもここにあるということにただ 「還った」 というくらいです、、

 

 

そうです、、「私たち」 は、いつも 「答え」 であるのです、、

 

 

 

 

ハートの奥深くからの切望が満たされるのは、

 

あらゆるものの意味をつかもうとする努力が落ちるときです。

 

もちろんそれは、普段の生活の実用的な場面で

 

物事の相対的な意味が分からなくなるということではありません。

 

そうではなく、<全体性> にしがみつこうとしたり、<存在の根拠> をつかもうとしたり、

 

人生の意味を解き明かそうとしたりはしなくなるという意味です。

 

 

そして、ただ生であるということにくつろぎます。

 

つかもうとしたり執着したりし始めたときには、

 

自分でそのことに気づく (見る、あるいは感じる) ようになります。

 

そう気づくと、きわめて自然にくつろいで手放せます。

 

すべてを解き明かそうとするのをやめたとき、解き明かす必要はないこと、

 

そしてそもそも解き明かすことなど不可能だとことを発見します。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

逆説的なことに、「答え」 を見つけよう、探そう、手にしようとする一切をやめたとき、

 

私たちは、、「答え」 で在るところの、単純さ、シンプルさ、自然さ、広がり、、

 

無知の知であるところの、安堵に目覚めるのです、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(2)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

気づきは、「何か」 特別なものでも、何らかの 「状態」 でもありません、、

 

ただ私たちの自然さそのもの、本来的空っぽさ、全くもってこのままの広がり、、

 

などと言うこともできるかもしれません、、

 

 

ですから、何か今とは違った 「状態」 に近付こうとするのではなく、

 

そうした、どこかへ向かおうとする探求志向の動きや努力を手放し、、

 

 

在ることのみに留まり、ただ気づいてみればいいのです、、

 

もっと正確なポインターがあるとすれば、気づきであってみれば良いのです、、

 

 

というわけで、昨日の流れから、、

 

個人は (どこかへの) 探求、、気づきは今ここ、、とも言えるでしょう、、

 

 

込み入った努力をやめて、何の努力もなしに起こっていること-------

 

聴くこと、見ること、感じること、呼吸、気づくこと、あること-------の中にくつろぐと、

 

自分がすでにこの <ここ・今> の全体的で分離のない出来事として

 

今ここにいるということに気がつきます。

 

つまり、これを手にしよう、これをしよう、これと同一化しようとする代わりに、

 

ただこれであってみればいいのです。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

 

気づきの瞑想という観点から言うならば、

 

目をつぶって、背筋を伸ばし、力を抜いてその場に坐り、鼻呼吸を感じながら、、

 

気づきに寄り添うということがまずは基本になります、、

 

 

ゆっくりとした自然の呼吸に委ねながら、聞こえてくる音に気づいてみます、、(▰˘◡˘▰)

 

それが何の音であるかという 「名前」 は付けないでください、、

 

「これは〇〇だ」 と決め付けた時点で思考 (の判断) に囚われてしまう可能性があるからです、、

 

ま、そうした思考にも気づくことができたのであれば、ただそれが流れていくままにしてみましょう、、オバケ

 

ポイントは思考を信じてしまうのではなく、、気づきに明け渡すことです、、

 

 

また、気づき続けることは、手放し続けることでもあります、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

ですから、先日の記事に書いた通り、、こうしたことを数分続けるだけで、

 

肉体的も精神的も軽さがもたらされ、癒しやリセットという現象が起きるとも言えますし、

 

 

気づきの中で、エネルギーの詰まり、滞り、重々しさは静まり、、

 

軽さから来るスムーズな流れが起き始めて来るとも言えるのです、、虹

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

テーマ:

 

というわけで、此間の流れで、、

 

個人は 「収縮」、気づきは 「広がり」 だということです、、

 

 

ですから、日常の中で、そうした収縮性 (執着性) の体感気づくことができたとしたら、、

 

それこそが気づきそれ自体から来る恩寵であると言うこともできるかもしれません、、

 

 

というのも、まさにそれは、気づき自身が、

 

幻想に光を当て、個人が握りしめている、あらゆる 「誤解」 を溶解させようとする、

 

目覚めのサインであるとも言えるからです、、ひらめき電球

 

 

そうしたきっかけを一つ一つ大切にくみ取りながら、

 

日々の中で気づきそれ自体の広大さへと寄り添うことを実践してみることをお勧めします、、

 

 

流行りの?マインドフルネスのようなものでも良いですし、

 

別段そうしたノウハウを知らなくとも、

 

シンプルに目をつぶり、呼吸や音、感覚に気づきながら脱力し

 

自分を差し出すといったことを数分続けるだけで、(▰˘◡˘▰)

 

 

開放性から来る、解放感を感じられたりすることでしょう、、。:.゚ヽ(´∀`。)ノ゚.:。+゚

 

 

そして、ゴールであるところのそのシンプルさにくつろぎ、

 

この自然で安楽な空っぽさから日常を始めていくとき、、

 

何とも言えない創造性が発揮されたり、要所要所で必要な対応における閃きが起きて来たり、、流れ星

 

 

まさに、生のダンスにますます愛おしさが込み上げ、帰依っぱなし(笑) になること可能性大です、、( *´艸`)

 

 

 

 

気づきは考えることを見ているものであり、

 

思考を思考として認識するものです。気づきは意識を知っているものです。

 

意の背後の光です。注意であるものです。

 

意識も注意も思考もすべて、現れては消えていきます。

 

気づきはそうしたものすべてを見守るものです。

 

・・・・・

 

気づきとは、<ここ・今> であるものです。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

いいね!した人  |  コメント(0)  |  リブログ(0)

AD

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス

      ランキング

      • 総合
      • 新登場
      • 急上昇
      • トレンド

      ブログをはじめる

      たくさんの芸能人・有名人が
      書いているAmebaブログを
      無料で簡単にはじめることができます。

      公式トップブロガーへ応募

      多くの方にご紹介したいブログを
      執筆する方を「公式トップブロガー」
      として認定しております。

      芸能人・有名人ブログを開設

      Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
      ご希望される著名人の方/事務所様を
      随時募集しております。