悟りの世界に遊ぶだけ~♪(*^o^)乂( ̄ー ̄*)

悟りを特別なものとして崇め、仰々しく語る時代は終わりました、、(^^)/~~~
悟りをより身近に、ごくごく当たり前の自然なものとして生きる時代へ共に参りましょう!(*^^)v

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さて、求道において、

 

「考えること」 と 「観察すること」 はまったくの別物です、、

 

 

「考える」 というのは、その性質上、、

 

何か出来事が起きた場合、あるいは、あらゆる物事に対して、、

 

瞬時に、それに 「ついて」 の考えが起こり (または、「考え」 を当てはめ)、

 

その現象が必ず 「何か」 にされてしまう反応のことを言います、、

 

 

 

その時点で、もはやそれは、「ありのままの姿」 はしていません、、

 

リアリティとの距離ができていると言っても良いでしょう、、

 

 

つまりは、、出来事に対する一面的なレッテルや解釈が貼り付けられているため、、、

 

あるいは、観念的な見方 (思い込み) でそれらを見ているため、、

 

 

「誤った見方」、「偽の姿」 を見ているということになります、、グラサン

 

 

--------------------------------------------------------------------------------

 

 

一方、「観察」 というのは、、

 

繰り返しになりますが、「考えること」 ではありません、、

 

 

むしろ、そうした何らかの 「考え」 に飛び付くことを放棄し、

 

ただ見る、ただ見守ることだと言って良いでしょう、、

 

 

これについては日々、気づきながら見る、、意識的に見る、などとお伝えしていることと同義ですが、、

 

要は、、出来事を 「何か」 にすることなく、、「ありのままの姿」 と出会うということです、、

 

 

 

そして、この時、、すでに 「秘密」 は明かされています、、

 

思考のベールに隠されていない、、この世界の本当の姿が露わになっているのです、、

 

 

 

 

そして、求道においてとりわけ重要になるのは、、

 

前者、思考によるアプローチではなく、、後者、気づきによるアプローチです、、

 

 

気づきは、、思考に対してすらも意識的に観察をする立場です、、(ΦωΦ)

 

 

これまでの、習慣的、無意識的に野放しにされた思考を観察するとき、、

 

あるいは、その奔走の様子に気づいたときに、それを見ることができ始めると、、

 

 

思考の世界は徐々にその土台を崩され始めます、、

 

 

 

そう言えば、少し前のことですが、、

 

「楽して悟る」、「楽ちん」 などというメッセージが流行りましたが、、笑

 

もちろん、このメッセージの意図するところは全くもって頷けるところではある一方で、、

 

 

思考観察のない求道は、、必ず引き戻されると言っても良いでしょう、、

 

最終的には、、くつろぎ、あるいは、無努力の在り様がゴールへの転換を為すものですが、、

 

 

「楽に」 という言葉だけに飛び付く背景には、、

 

単に、面倒なことを避けたいとする自我の防衛性が糸を引いていると見ることができますし、、

 

 

あるいは、楽な体感から仮に瞬間の開き、真正な安堵感へと誘われても、、

 

必ずその後には、思考による限定化、自我の所有性などがそれをエサにしようと動き出す

 

可能性をはらんでいるとも言えるからです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

って、実際、こうしたメッセージの発信者自らは、、実は、、かなり入念な思考観察者である場合が多いです、、秘密

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

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人生には様々な道があります、、

 

 

ぬかるんだ道、石や岩の多い険しい道、、

 

時に、平坦な道もあれば、思わぬ障害物が待ち構えている道もあるでしょう、、

 

 

「自分」 にとって歩き易い、平坦な道ばかりを望む生き方は、、

 

一見、自我にとっては魅力的に映るものの、、

 

その背後には、防衛に根差した 「個人の都合」 による見方があると見ることができます、、

 

 

晴れのばかりを夢見て、、永遠の春を望む様相、、

 

これは、真実の歩き方ではありません、、

 

 

 

真実の生き方、歩み方というのは、、どんな道に遭遇しても、、

 

反射的に反応する防衛のエネルギーに意識的に在り、それを手放し歩き続けること、、

 

 

「自分の都合」 ばかりで道を選ばない生き方のことを言います、、

 

 

もちろん、時には、、身の危険を避けるために、

 

障害物を避け、道を変更することも起こり得るでしょうが、、

 

 

あくまでも大前提は、、どんな道でも逃げることなく出会い続ける、、

 

道の途上、、何らかの対応がその都度必要になるときは、、

 

 

丁寧にそれと向き合い、、一期一会、、

 

出会いと共に流れ続ける生き方、、これを真実の生き方、、あるいは、禅と言います、、

 

 

 

 

自分にとって都合の良い道、状態、気分ばかりを求めようとすること、、

 

自分の 「都合に良い」 ことだけを手に入れ、「都合の悪い」 こととは無縁でいようとすること、、

 

 

こうしたスタンスは、、迷い道につながる可能性を往々にしてはらんでいます、、

 

 

つまるところ、、「迷い」 が生じるのは、、

 

今いる道 (出会い) から逸れて、もっと都合の良い、快適で刺激的に見える 「どこか」 へと、

 

「逃げる」 ことによって起こることに他ならないからです、、

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

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不意に思い出したある禅の逸話、、

 

詳しいところまではうろ覚えですが、アウトラインはこんな感じです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

というわけで、どうぞ、、むかーしむかしのことじゃった、、(▰˘◡˘▰)

 

 

あるとき、禅師と弟子が外出中、、

 

ある女性が川の前で困った様子で立っていた、、

 

聞けば、大雨のせいで川にかかっていた橋が流されてしまい、波

 

向こう岸まで渡れずに困っているとのこと、、

 

 

 

すると、それを聞いた禅師は、、女性をひょいと担いで川を渡り始めた、、

 

驚いたのは弟子、、仏道を歩むものが女性に触れるとは、、パンチ!

 

 

川を渡り終えると女性を降ろし、禅師は再びスタスタと歩き出した、、

 

弟子もその後を追うが、、未だに納得がいかない、、それとも何か理由があったのだろうか、、

 

と師匠の背中を見ながら悶々と考えが巡る、、Oo。。( ̄¬ ̄*)

 

 

 

 

そして、ついに、、弟子は師匠に思い切って尋ねてみることにした、、

 

「師匠、、なぜ、あなたは先ほど、あの女性を担いで川を渡ったのですか、、

 

 女性に触れるなど、、我々、仏道を歩む者にはもってのほかのはずです、、

 

 何か理由があってのことだったのでしょうか、、どうか、教えてください!!」

 

 

すると、禅師は、、こう言った、、

 

「お前は、まだ (あの女性を) 担いでおるのか

 

 (今は、今が現れているというのに、、) 」

 

 

-------------------------------------------------------------------------------

 

 

禅の修行は、、この移り変わる相対の世界にあって、、

 

それと共に流れること、あるいは、それと出会うこと、、

 

つまりは、今 (真実) を生きる体感を養うものであると言って良いでしょう、、

 

 

禅の修行、あるいは、実践をしたことのある人なら分かるはずですが、、

 

 

禅では、目の前の行為行動の中に注意を向け、そこだけにひたすらに取り組みます、、

 

細かすぎる修行体系に、何のためにこれをするのか、、これをして本当悟れるのか、、

 

などと言った 「異論 (抵抗) 」 に足をもつれさせることなく、、

 

 

それらを手放し、、ただ今に在ります、、

 

食べる、唱える、坐る、歩く、掃除をする、歯を磨く、顔を洗う、、

 

ただその時の行為に溶け去るのです、、

 

 

あれこれの思考のおしゃべりが起きてもそれを見守り、

 

相手にせずに (囚われることなく) それを捨て去る、、

 

 

自分が生きているのは、、目の前の出会い、、今この瞬間なのだというところから揺らぎません、、

 

 

この修行のエッセンスが分かれば、、もはや禅寺は必要なくなります、、

 

なぜなら、日常のすべて、あらゆる場面が、、今を生きる実践の場になるからです、、(●‘∀‘●)ノ"

 

 

 

私たちの自我、恐れ故の防衛性から来る、所有の感覚は、、

 

ネガティヴな思い出や感情などどんなものでも所有したがります、、

 

あるいは、自分が安定するためにと、あらゆる足場、信条、観念にしがみつこうとするのです、、

 

 

そうした反応自体は自然なものなので 「悪い」 というわけではありませんが、、

 

禅の人たちは、それら反応がやって来る度に、それに気づき、、(ΦωΦ)

 

それに囚われることなく、その都度 「降ろす」、、

 

 

そうしたクリアな体感で今に出会い続けること、、これを、禅と言うのです、、

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

 

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「答え」 を 「どこか」 で探す度、、

 

今居る 「この場所」 を見落としてしまいます、、

 

 

「どこか」 に 「ゴール」 があると信じてしまえば、、

 

初めから 「ゴール」 にいるということを信じられなくなります、、

 

 

「探す」 ということ自体が、、

 

今にはまだそれがないという観念を強化してしまいます、、

 

 

超越的な何かを求めれば求めるほど、、

 

すでにあるこのリアリティから離れてしまいます、、

 

 

崇高な何かを知ることができるはずだと思うほど、、

 

知る必要があるものなど何もないというシンプルさが見えなくなります、、

 

 

 

 

 

目覚めとは要するにただここにいることだ。 (ジョン・バーニー)

 

 

解放を探せば、解放を見落としてしまいます。

 

探しながら、自分は解放とは別のもので、目の前のこれは解放ではなく、

 

「それ」 はどこか 「外側」 で見つけ出せる何かなのだと、私たちは想像します。

 

・・・・・・

 

解放とは、解放をどこか別の場所で探すのが終わること、

 

あるいは解放というものは、たった今の目の前のこことは必ずどこかは違って見えるはずだ

 

という思い込みが終わることだと言っても、たぶん構わないでしょう。

 

究極の解放とは、解放という観念がすべて落ちてしまうことなのです!

 

・・・・・・

 

解放とは、<答え> を手にしているという意味ではありません。

 

解放とは、宇宙の仕組みをすべて解明したということではなく、

 

すべてを解き明かしたいという貪欲な欠乏感がなくなるこです。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

あなたが何をしていても、どこにいても、、どんな気分でいるときでも、、

 

あなたが 「答え」 でなかったことは一度もありません、、

 

悟りや覚醒、解放といったものは、、決して 「すごい」 ものではなく、

 

一部の覚者だけの特権であるわけでもありません、、

 

 

たった今、、ここにいるあなたがまさにそれなのです、、

 

 

もうちょっとだけガイド的に言うならば、、

 

どんなものでも、今在るものを完全に受け入れたとき、、あるいは、そのままにしておくとき、、

 

今いるこの場所で扉は開きます、、星

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

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さて、いわゆる、無我、、あるいは、無分別の実相、、

 

などと伝統的に仰々しく語られる在り様を 「思い出す」 こと、、

 

 

ずっとそれで在ったという深い感得にくつろぐことを

 

目覚め、あるいは、悟りなどと言ったりするわけですが、、

 

 

そうした様相は、別段特別な状態のことでも、あるいは、境地や次元のことでもなく、、

 

まさに、今この瞬間、、「何か」 になる前の私たちの本来の姿が、、

 

 

すでにそれであるということであって、、

 

誰しも、初めからそれであるわけなので、、言ってしまえば、、「当たり前」 のことなわけです、、

 

 

 

ですが、その当たり前の上に、、様々な観念的上塗りが覆いかぶさっているがために、、

 

私たちは、「名前」 を持ち、「記憶」 というストーリー上の登場人物であるという認識もあり、

 

人間関係や社会生活が、それをベースに展開しているという、、

 

 

摩訶不思議な世界に生きているとも言えるのです、、

 

 

----------------------------------------------------------------------------------

 

 

というわけで、、現象のすべて、ありとあらゆる限定化のすべてに

 

気づいているこの領域は、、決して 「誰か」 でなはないという疑いようのない認識はありながらも、、

 

 

相対の世界では、、「誰か」 であるという役割の中で生きていくというものまた、、

 

実際に、一人一人の、それぞれの場所で起きていることです、、

 

 

ですから、誰でもないということにしがみついてしまうこと自体が、、

 

「誰でもない」 という 「誰か」 という二元性を生み出してしまうという傾向も、、

 

思考感覚の習性によって充分に起こり得ることなので、ある意味では注意が必要とも言えるかもしれません、、

 

 

私に禅を教えてくれた禅師は、、「空をも空じよ!!」 などいう言葉で、、

 

禅の 「悟り」 に対するスタンスを説いてくれました、、

 

即ちは、、悟りすらも捨て去ってこそ、、真実 (悟り) の生き方である、、的なところで、、

 

 

 

そう言えば、、アジャシャンティさんの本には、、

 

これについて、「意識的肉体化」 という言葉でポイントされていたように思います、、

 

 

つまり、「個人」 でありながら、「個人」 を手放す、、(身心脱落)

 

「無我」 でありながら、、「個人」 に意識的に住まう、、(脱落身心)

 

 

 

 

本当の悟りは、誰でもないということに価値を置いたりはしません。

 

本当の悟りは、全体性を認識しますが、様々な違いを否定したり無視したりはしないのです。

 

非二元の絶対は相対的な現実を含んでいますが、

 

相対的な現実に縛られたり混乱させられたりすることはありません。

 

 

単一性には山と谷とを識別する能力も含まれています。

 

単一性は、生という劇の中で一人の個人として存在しているという経験も含むものです。

 

目覚めているというのは、人生のどんな状況にあっても、

 

相対的な真実を見ると同時に、絶対的な真実を見ること、

 

どちらか一方にだけこだわったり、はまりこんだりはしないことです。

 

 

本当の非二元論は、山と谷は分けることのできない一つの出来事だと認識しながら、

 

それと同時に山と谷とを識別することができます。

 

真実全体のどちらの側面も否定しません。 (ジョーン・トリフソン)

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

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というわけで、数年前、、

 

私は、ある禅僧から、(臨済) 禅の真髄を教えてもらいました、、

 

 

彼がよく言っていたのは、、臨済禅の中興の祖、白隠禅師のこの言葉、、

 

マカエンの禅定は賞嘆するに余りあり、、というものでした、、

 

 

あ、その前に、、「求道」 ということにおいては、、

 

「言葉」 を 「信じる」 だけではまったく意味がありません、、

 

どんな高名なマスター方が語った言葉であっても、それが何を指し示したものなのかを、、

 

直に調べないことには、、真の求道とは言えません、、

 

 

 

というわけで、禅を学び始めた頃の私は、、

 

「マカエンの禅定」 が指し示すものが何なのか、、

 

白隠や、私に禅を教えてくれた禅師が一体どこに私をガイドしようとしていたのかを

 

徹底的に調べてみることにしました、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

「調べる」 と言っても、、書物を読み漁る必要はありません、、

 

求道は、、「実践」 のみが手掛かりになります、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

----------------------------------------------------------------------------------

 

 

マカエンと言うのは 「大乗」 というポインターであり、

 

禅定とは、三昧、、出来事や行為の中に没入して取り組むということでした、、

 

 

つまるところ、、出来事にせよ、人にせよ、、目の前の 「出会い」 と一つになるということ、、

 

その出会いが好転的に計らうように、、その場にひたすらに明け渡すことなどとも言えるでしょうか、、

 

 

というわけで、、こうした三昧、あるいは、禅定において、、

 

日々、自我の防衛性故に、、ついつい優先してしまいがちな 「個人の都合」 という 「枠」 は薄まり、、

 

開かれたその場には、、思いもよらないエネルギーが満ち満ちるということを発見しました、、

 

 

これを、ゾーンなどという人たちもいるそうですが、、

 

大事なのは、、これが特別な状態、辿り着かなければならない境地などとは思わないようにすることです、、

 

 

というのも、、この様子をさらに見て行くと、、(ΦωΦ)

 

まったく自然な生のダンスに他ならないということに気づけるからです、、

 

 

 

 

というわけで、禅とは、、宇宙と手を繋ぎつつ、、レッツ♪今ダンス!ヽ(*・ω・)人( ̄ー ̄*)ノ

 

と言ったところでしょうか、、(●‘∀‘●)ノ"

 

 

二人を超えて行け~♪

 

一人を超えて行け~♪

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

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というわけで、、ある言葉を思い出しました、、('◇')ゞ

 

 

臨済宗の大本山、、奥山方広寺を開山したある禅師の言葉、、

 

わずかに一念を生ずれば即ち真に違(たが)う、、

 

といったもの、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

「一念」 とは、つまるところが、、

 

現代の悟り系で言うところの、「思考」 のことだろうと察しがつきますが、、

 

 

※もちろん、、思考は雲の流れと同じで、宇宙のダンスの一つですから、

 

それが生じること自体は止めることはできませんが、、

 

 

おそらくこれは、、そうした 「思考」 があるがままの現象の上に覆いかぶさり、

 

「自分の都合」 や 「観念 (習慣的思い込み)」 をベースに仮の世界を

 

瞬時に作り上げてしまうといった習性を見抜いた上でのガイドポインターだろうと思いつつ、、

 

 

 

それと同時に、真実はまさに、、

 

思考が生じる前のそのままの在り様にすでに在る、、

 

ということを強調している言葉だろうとも感じられるものです、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)

 

 

--------------------------------------------------------------------------------

 

 

というわけで、、あれこれ混乱したときや、自分が迷っていると感じられたとき、、

 

思考が 「何か」 をつかもうと、今いる場所から意識を連れ出している様子に気づいたときは、、

 

 

その動きに気づきを向け、意識的にその動きを見守ってみると良いでしょう、、(ΦωΦ)

 

 

そうすることで奔走する思考から手を引くという可能性を徐々に見出し始め、、

 

いつもここにあるゴールから始めるということが少しずつ容易になって来たりもするものです、、

 

 

 

 

思考の緊張、収縮を手放し、、

 

開かれたスペースに 「在る」 という自然さから何が生まれるか、、そこに何が現れるか、、

 

力を抜いて、観察してみましょう、、(▰˘◡˘▰)

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

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さて、求道においてかなり高度なポインターであるとも言える、

 

自我はない、、というもの、、

 

 

悟り系メッセンジャーの多くが多用する 「自我」 という言葉、、

 

私も最近でこそ、「自我性」 というポインターに切り替えつつも、、('◇')ゞ

 

それでも、依然、私のプログの主軸のひとつとも言えるテーマでもあります、、

 

 

----------------------------------------------------------------------------------

 

 

さて、この、自我はない、、というポインター自体は真実です、、

 

しかしながら、、この言葉だけを信じると、、必ず勘違いのもとになります、、

 

 

自我という 「実体」 として 「固定化された存在」 がどこかにいるかいないかという意味で、、

 

自我はない、、とは確かに言えますが、、

 

一方で、、自我と呼ばれる 「働き」 が、私たちの日常の様々な場面で見られるのもまた事実です、、

 

 

そして、私たちのこれまでの二元的な条件付けを可能にしているのが、、

 

この、「自我 (の働き、あるいはエネルギー的な反応)」  に他ならないというわけです、、

 

 

ですから、この感覚、、「恐れ」 から来る防衛性の反射

 

注意深く観察し、それに意識的で在ること、、(ΦωΦ)

 

その時、、その混沌としたエネルギーが芋づる式に思考を引っ張って来ては、、Oo。。( ̄¬ ̄*)

 

 

「自分の都合」 に偏った形で、さもそれが真実であるかのように巧妙にストーリーをこしらえ、

 

それを (自分の持ち物として) 所有しようとするか、、という様子を見続ける目ということが、、

 

 

条件付けの土台を崩し始め、目覚めの手掛かりになって来ると言っても良いでしょう、、

 

 

 

 

そう言えば以前、、溝口あゆかさんのお話の中で、、

 

溝口さんのティーチャー、、ルパート・スパイラさんから、、

 

あなたは自我があるように話しているけれど、自我はありませんよ、、

 

的なことを言われたというのを聞いたことがあったように思いますが、、φ(.. )

 

 

これは、ある程度、求道 (内側の観察) をしっかりやって来た人に向けられた際には、、

 

実に的を射た後押しになる場合もあるでしょうが、、

 

 

依然、この反応に無自覚に流されている状態の時に、この言葉を目にしても、、

 

結局のところ、、思考によって、すぐさま 「都合良く」 解釈されてしまうというのも否めません、、

 

 

というわけで、、ハリー的には、、

 

自我は、、「見破るまでは」 あります!

 

 

 

 

※そんなこんな、春の知らせと共に、、ガーベラ

 

今日のブログからフェイスブックのページに自動で更新の便りが届くシステムになりました、、(/ω\)

 

 

今日も読んで下さり、ありがとうござます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

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思いがけず、日々是好日というワードが久々に登場しましたが、、('◇')ゞ

 

 

では、今日はそんな流れで、、

 

スピリチュアルに留まらず、多くの場合、、

 

 

「悪い気分」 を避け、「良い気分」 でずっといたい、、

 

「悪い気分」 が現れたのであれば、「良い気分」 に一刻も早く作り変えたい、、

 

 

といった、背後にある自我性の 「恐れ」 故に、、

 

「不快さ」 から反射的、無意識的、、あるいは、自動的に 「離れよう」 とするのが一般的です、、

 

 

もちろんこれは、生命維持のための防衛性に基づく、

 

ごくごく自然な反応ではあるわけですが、、この反射、奔走に無自覚に流されてしまうと、、

 

 

 

私たちの人生は、、(個人の都合による) 「不快」 なものが現れる度、、

 

そこから 「逃げる」 といった、今ここ (真実) 外しの人生にハマってしまうと言えます、、

 

 

----------------------------------------------------------------------------------

 

 

「悪い気分」 を 「良い気分」 に変えようとすること、、

 

「悪い気分」 とは無縁で、「良い気分」 だけに留まろうとすることは、、

 

 

まるで、「雨の日」 を力ずくで 「晴れの日」 に変えようとすることであり、

 

 

あるいは、、ジョーンさんで言うところの、「永遠の春」 を望むこと、、

 

そして、それを自分のものにしようとすることと同じようなことだと言えるかもしれません、、

 

 

 

 

 

 

というわけで、、禅的、日々是好日とは、、

 

人生において、どんな季節、どんな日、あるいは、どんな場面、どんな出来事に出くわそうとも、、

 

そこから逃げず、それに出会い、それと共にあるということです、、

 

 

どんな現れ方をしていても、それは今ここ (真実) に他なりません、、

 

良いや悪いやと、個人の都合から見た一面的な 「判断」 や 「解釈」

 

思考がほどこす様子に意識的に在り、、(ΦωΦ)

 

 

 

ただその場を生きる、、そこ以外に人生の目的 (本番) はないと取り組むことを、、

 

帰依と言い、受容と言い、、禅ではこれを、、一期一会、、日々是好日と言うのです、、(●‘∀‘●)ノ"

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

 

 

 

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人生には、様々な天候の日があります、、

 

 

晴れた日、雨の日、雪の日、風の強い日、、

 

 

一般的な天候に留まらず、

 

日常の中で出くわす様々な出来事に対しても同様のことが言えるでしょうし、、

 

それに伴って反応する内面の 「天候」 もまた然りです、、

 

 

そうした様々な天候に際して、、

 

自我の防衛から来る、「個人の都合」 に根差した反射作用に無自覚でいると、、

 

 

気分を良くしてくれる晴れの日は、「良い日」 、、

 

気をめいらせる雨の日や悪天候の日は、、「悪い日」 といった、

 

すぐさま思考の限定化に陥ってしまいます、、

 

 

思考がどのように、それを経験している 「私」 という、

 

ストーリー上の存在を実体化させるかといった点に意識的に在るといった、

 

気づきながらの取り組みも、そうした思考や自我が人生を自分の都合通りに進めようとする、

 

コントロール性といったものの土台を少しずつ崩していくといった効果は発揮されていくでしょうが、、

 

 

それよりもまず大切になって来るのは、、

 

どんな天候の日にも、丁寧に出会っていく、、逃げることなくそれと共に在る、、といった、

 

いわば、禅的、一期一会、、日々是好日、、といったスタンスです、、

 

 

------------------------------------------------------------------------------------

 

 

晴れの日が、雨の日よりも優れているとか、真理に適っているということはありません、、

 

晴れの日ばかりが、「真実」 に見えると勘違いしてしまうのは、、

 

 

先にも述べた通り、

 

自我の 「恐れ」、あるいは、「都合」 という個人的な観点から見たときだけです、、

 

 

悟りは、、晴れの日を楽しみくつろぎながらも、、

 

雨の日に対しても、静かに見守りそれと共にあり、気づき自体の受容性で出会います、、

 

 

こうした静と動の体感が共に馴染んでくると、、

 

雨の日の中で、あるいは、嵐の中でさえも、、くつろぎと自由を見出し始めるのです、、

 

 

 

まさに、禅の実践は、、これの体得とも言って良いでしょう、、

 

禅は、決して 「今」 から逃げません、、

 

「今」 に出会うこと、出来事に全面的に取り組むこと、、

 

その場の中に行為と共に溶け去ります、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ

 

 

 

 

 

これについては、以前はよく、、

 

今 (真実) と手をつなぐ生き方などとポイントしたものでした、、ヽ(*・ω・)人( ̄ー ̄*)ノ

 

 

今に出会い続け、今を友とし衣とする、、それが禅です、、(●‘∀‘●)ノ"

 

 

 

※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ

 

 

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