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ぼくは、不幸な人間に同情しない。ぼくの過去を振り返って言うのであり、普遍化して言うのではない。 軽口には、許(赦)されるという甘えと無自覚があるので、軽口を発する本人には罪の自覚が無いどころか調子に乗っている。しかし、ぼくは言うが、「軽口」というものは存在しない。存在するのは、「重い罪の言葉」である。他の魂を傷つける深い罪は、その重さを意識して言った場合と同じであり、もし、その重さを意識していれば言わなかった言葉、言うことはできなかった言葉である。その同じ言葉は、軽い気持だったから、そんな気はなかったから、などという主観的な事情で無罪にできるようなものではない。よくきいてほしいが、その言葉を発したのは、本音であったからなのである。それを軽い気持で言えるほど、相手を舐め、見下し、相手に高慢であったからなのである。だから、情状酌量の余地は、実際には、実際にも、無いのである。軽い気持ほど恐ろしいものはない。ふつうなら(意識があるなら)出来ないことを、「軽い気持」こそ、この気持の上に載せてこの世に送りこむ、悪魔の乗り物なのである。すべての悪事は、この「軽さ」から始まり、堆積される。本人が依然軽い気持であろうがなかろうが、為される罪は(被害者にとって)同じなのである。この世の真の重罪人は、重い気持など無く軽い気持だけで他を傷つけ続ける者だろう。そうでなければ人間、とても罪を続けられるものではないから。どうして重罰を受けないことがあろうか。それでじぶんは立派な常識と良識をもって日常を生きているなどと言えるのは、周囲が極限の忍耐と我慢と自己抑制をかろうじて続けてきたからであって、痕跡を残さないと思っているのは、本人だけである。指摘すれば、言いがかりをつけるなと、逆に怒って攻撃してくる相手だ。だから、周囲もますます疎遠にして、これは例だが、いつか屋根から落下して死刑になったりするのである。刑のあり方には様々あり、これはもう読者のほうで推してほしい。こうやって不幸になった人間に、だれがほんとに同情するだろうか、とぼくは言うのである。